『こどちゃ読本』テキスト全文
                  瀬川あおい

1「私、ヒモいる小学生」

【教室に入るとそこは戦場だった。
 やるかやられるかのやばいばるワールド突撃スクールコメディ、登場!】

驚異の音声多重アニメーションスタート

 ´96年4月。まだ僕らが「りりかSOS」最終回の衝撃を忘れ得ぬ、大地シリアスの呪縛に絡めとられていた頃、これを引き継ぐ形で全く異なるテンポと技を繰り出す驚異的ギャグアニメーションドラマが始まった。「こどものおもちゃ」という、ややあぶなげなタイトルを冠して登場したこの異色作、何がすごいのかといって、そこに押し込められた脚本の量が超はんぱな量ではなかったのだ。後に「三段組脚本」として音響監督の田中氏に「これは挑戦か!?」と言わしめた、大地丙太郎入魂のオーバードライブ作劇は、こうして今のべ17回にのぼろうかという私の再再再再再・・・・視聴にも十分耐えて、まったくもって飽きさせることなく十二分なテンションとノリと笑いを与えてくれる。実に恐ろしいことだ。まさに名付けるならば、「大地式音声多重モーションピクチャー」の出誕であった。りりかでシリアスの究極を表現しながら同時にこいつを用意していたとは、天才の為せる技としか思えない。もはや紙一重的なところでこどちゃは大地氏オリジナルな和製サンバのリズムに乗りながら無限に続くかと思われるギャグのらせん階段を全カット三段跳びの勢いで駆け上がるのだから、この作風 というかフィルムテンポに一体何人の人間が脱落せずについてこれたかと不安にすらなる。この不安は当然監督にもあったようなのだが、りりかで対象の子供達をTVアニメという電車ごっこからふりおとして、ロープの先頭で暴走しまくってしまった大地氏にとっては、かー又やっちまったぜい! 的な確信犯的ノリだろう。これは音響監督氏のみならずそれを演じる声優と作劇を合わせるアニメーターと最終的な尻拭いを余儀なくされるぎゃろっぷの撮影班と、ひいてはうっかりこのフィルムを見てしまうであろう「りぼん」読者と対象年齢該当の子供達と「りりかドランカー」になって社会復帰が危うくなってしまった金曜夜六時族への、紛れもない四十過ぎ大地丙太郎からの挑戦だったのである。
 テレビ東京の製作するアニメというのは若干恵まれていると言うべきか、たいがいステレオ化されていて音の表現の幅が非常に広い。いまだそれを効果的に使ったケースはあまり見たことがないが、少なくとも大地氏は「赤ずきんチャチャ」を担当されていた頃から左右のパンポットを大きく振って画面上のキャラクターの移動とシンクロさせた気持ちのいい立体的音響作劇をこなしていた。僕はそれを毎回楽しみに見せていただいていた。りりかに至って交響曲をバックにした大舞台的見せ場を演出された氏の狙いも、一介の小学生向け物語BGMとしてはオーバークオリティな大仰過ぎるイッちゃった部分がすごく好きだった。シンフォニーによる音作りの狙いは多分大多数の視聴者には理解しがたいものだったように思うが、たぶん最終回までとことんついていった人々は、この瞬間のドラマへ止揚する為のダイナミックな伏線であったことに気付いたことだろう。音響構成にも伏線は存在すると田中氏も語っている。こうした音のパンニングやマルチダビング、そして音響そのものによる作劇演出にかねてから普通の監督以上にこだわりを見せていた大地氏は、OVA「妖精姫レーン」の勘違いに外し まくった台詞の重奏を経由してちょいとターンを決めたところで、りりか路線の継承たるこどちゃに至ったわけだ。管見によっても、こどちゃの疑似ラテンリズムは「りりか」シンフォニーの内転的イミテーションの導入が成功した例に取って見られるし、三段組脚本の波状攻撃を方法的に可能ならしめた音多は「レーン」の技術的方法化作業あっての結実であることは理解できる。そして詰め込み過ぎと思えるほどの台詞の充填は、明らかに「チャチャ」の暴走した喋り以外のなにものでもない。言ってみれば大地氏が他所で実験的に導入していた普通じゃ考えられないような音作りが結集して完成した場所、それがこどものおもちゃ第一話というハレの舞台だったのだと思う。もちろん並の監督業の人にはこんな荒技を実行できようはずがない。アニメに限らず映像にまつわる仕事の多様な分野を転々として苦しみながら下積み時代をこなしてきた変則的過去があったればこそやれる、身内の音響・製作・撮影諸氏へのわがままな要求であったろうし、全てに顔を突っ込んで自分のイマジネーションを指揮できる総合クリエーターなればこそ、まさに監督業を超えた監督として大地氏は奇跡をなしえたのだろう 。今の凄惨極まるTVアニメ制作現場の中で、これほどつっぱってやり抜ける人間はそうざらには居まい。結局アニメーション=動画という狭量なジャンルに限定せずあらゆる映像製作の現場を渡り歩いた人間が真に動画の可能性と閉塞の突破口を開けるということ。そういうわけでこどちゃは、彼という監督を得たことにより非常に幸せなTVシリーズとしてのスタートを切った。比較したければOVA版の「こどものおもちゃ」を見ていただければ宜しいが、大地氏抜きに語ればこれ程違う作劇になるのである。作った人には申し訳ないがOVAにおける原作ベッタリの作風で連続して一年、こどちゃを見続ける自信が僕には無い。そういうもんなのである。

「こどものおもちゃ」解題 

 さて、こどちゃの突出した演出方法がひとえに大地丙太郎氏の独壇場であることは記したとして、ここで解明しておきたいのは「こどものおもちゃ」というタイトルの意味である。実は良くわからぬ。わからんのであるが、小花先生の狙いというのは多分こんなところだろう。ここで言う「こども」とは現代的な意味でのこども達。大人に対しての子供。但し、一般の大人達が具体的にイメージする「こども」というものに対しての強烈なアンチテーゼとして、こどもという職業の生のなりわいを意味せんとするものなのだということ。つまり何が言いたいかって? 社会はこども達に地球の未来を託すとか明るく楽しいこどもの未来みたいなことを安易に口走るけど、実際にあの年頃を生きてみればこうした空象が大人達の都合によって創作されたイミテーションだということが明瞭になる。大人が想像し期待するこどもとは、教育基本法や児童福祉法が内部に規定するような社会通念上望ましいこどもの理想である。そんなこどもの姿なんて現実の社会には何処にも無い。ありもしないのにかかわらず、まるでそれが正しく存在しているかのように理想化して語る大人へのアイロニーが、小花式原作にはは っきりとこめられている。こどちゃが若干の社会的テーマを指摘される部分ていうのも、そういう点だ。ねぇ、大人達は自分の抱く理想をこどもに押し付けられるほど立派な生き物かい? 生存競争にあえぐ大人社会とこどもの世界はまるで切り離されたものだと思うかい? むしろ話しはもっと深刻で、大人はいつだって自分達のわがままでこどもを従わせてきた。社会の歪みはこどもの存在を犠牲にしてなお深刻に彼等の人格へ影響を及ぼす。こどもの世界は大人のゆがみきった実像と切り離されたものでない限り、腐ったリンゴはまだ青いリンゴを共通の箱の中でどこまでもむしばみ続ける。全て同じひとくくりの社会性の中にいるのだ。とすると、こどもの世界だってあまっちょろいもんではなく常にやるかやらないかやられるかのやばいばるワールド(BY紗南チャン)として、大人の世界を反映するリトル現実社会というやつだ。その中で一人一人がこどもという立場に甘んじることなく戦いを強いられ、自己の立場を確立しなくてはならない場所なのだ。だからこその「こども」。駄目な大人達の自分勝手な都合とわがままでこどもに過酷な宿命を与え続ける現実があるにせよ、これを果敢に乗り越 えひいては与えられた社会というものを自分達の手の内で踊らせおもちゃにしてしまうほどのこどものバイタリティーを指して、「こどものおもちゃ」というタイトルがひねり出されたのではないかと僕は思う。まぁ本当のところは知らないけれど。でも、戦っているよね、紗南ちゃん達は自分達の世界に対して敢然と。そして後々明らかになるのだけれど、紗南と彼女を取り巻く環境がちょいとゆがんでいるのは決して当人たちばかりに責任があるのではなくて、全ての根源的原因をむしろ大人達が実は作り出してしまったものなのだということ。そして、彼等の尻拭いをさせられているのかもしれないということがこどちゃのテーマとして明瞭なわけだ。けれど、けれどね、決して誰をもうらんじゃいけない。それが初めから与えられた環境である限り、人は受容して力強く生きていくしかないのだ。一歩一歩着実に前を向いて。そしてお互いに泣き場所を見つけ合いながら次なる世代の世界を、まともな世の中を、愛ある人間関係を築いていかなければならない。そういうテーマをはしょって言うならば、こどちゃは正しく社会派アニメ。けだし反論はあるまい。だが、そういったしんき臭さやリアルな設定 の過酷さ、直面する逃れられないマイナスのシチュエーションをシリアス一辺倒で追求されたんじゃ見るほうはたまらない。だから、大地理論の導入なわけだ。分裂しまくる監督の表現形態によって、99%をギャグで固めながら1%のシリアスな真実を射抜く。唐突に、適格に、誰もがその狙いに気付く前に突いてしまう。それこそがこどちゃの掟破りなルールというものであるだろう。大地マジックに翻弄されて笑いの渦に巻き込まれているうちに、どこか一点、狙いすましたような鋭い一撃で胸の辺りをずんと突かれる。その時、もう一度「こどものおもちゃ」という小花先生のタイトルに戻ってみると、なんだかとても意味深なものを感じるのだ。多分。

笑いと台詞のガトリング砲

 とにかく第一話は大量のパラメータに埋められている。こどちゃを構成する部品はあまりにも多い。アニメ雑誌式に言うと「スの無い」演出をこころざした、大地マジックが織り成す音声多重超絶圧縮脚本が、あらゆるアイデアを隙間無くフィルムのコマというコマに充填している。まさにオーバーフロー寸前、びっくりおもちゃ箱的なジェットコースターアニメーションとなっているのだ。ラテンのリズムに乗って踊る豚目覚まし(誰が買ったのだ?)、ピコピコハンマー(ママが通販で買ったくだらないコレクションにちがいない)、バッチオッケーな美人紗南ちゃん(だからこれに惚れただなんて誰にも言えない)、朝飯抜きで学校行かせるほど心の広くないママ(学校遅刻回避より朝御飯優先という素晴らしい教育)、なぜか小学六年生の女の子のヒモでマネージャーやってる玲君(ベンツに初心者マークが泣かせる)、つっこみ白コウモリ(名前はまだ無い)、「こどものおもちゃ」番組収録(すでにフツーの小学生の生活ではないヒロイン)、ぜんじろう先生(歯がー歯がーよんまちゃんじゃなかったのか?)、TOKIOのまもちゃん(19時のニュースをフルに聴きたくってTOKIOのアル バム買ってしまったのは完全に敵の思う壺)、モーホーなヘアスタイリストさん(玲君狙い!)、今週の紗南ちゃん(玩具会社の要求を逆手にこなすこのセンス)、ここぞというところで原稿取りに来る恩田さんと家中を電気自動車で走りたくり逃げまくるママ(いつ原稿書いているのか?)、リスのマロちゃん(芸は身をたがやすラブリーさ)、歌う紗南ちゃんラブソング(ごきげんグラフって日本語?)、お休み紗南ちゃん(天使の寝顔)、劇団こまわり(実態は不明だがその恐るべき効果は紗南が身をもってアピールしてくれる)……などなど、ざっと思い出してみても、きりがないくらいの多様な要素が充填されている。しかもそれらのどれを取ってみてもあまりに非常識でおもしろおかしい。ギャグシーンの無いカットなど犯罪と言わんばかりに、おおよそ考えられる限りの贅を尽くして異様にコミカルなパーツがとことん細部にわたって組み込まれている様は、ほとんどやりすぎなまでの充実と迫力とけたたましさで、とてもじゃないが並の人間が一度見た限りでは全てを把握することなどできない。よくぞまぁこれだけパワフルにアイデアの限りを押し込んだものとほとほと感心するより他無いのだ 。もはや3回美味しいキャラメルどころではない。10回見てもまだおいしい、コンデンスアミューズメント。これらの要素一つ一つを全て大地氏が考え出したものだとしたら、もはや氏を天才と呼ぶより他ないと思う。特に好きなのは「気分そーかいー」とのたまいながら首と手を水平方向に(しかも逆方向に!)スライドさせる紗南ちゃんの動きで、こんな変なキャラクターをコンテに描いてしまうのは大地先生以外考えられないわけだが、りりかのギャグシーンを引き継ぐ表情づけはなんともはや嬉しいではないか。むしろだから、りりかにおいておさえつけられていた作者の願望がタガを外されて一気に暴走した、という表現が適切だろうか。あの究極のシリアスストーリーを書き出す裏で実にこれだけのギャグストックをふつふつと内に得ていたのかと思うと、人として空恐ろしいものをすら感じる。マスコミの前で自らをギャグ作家と標榜するだけのことは確かにあるのかもしれない。
 こどものおもちゃは、デビュー当初から原作を大胆にアレンジした大地流こどものおもちゃ箱であった。そして通常作品の三倍はある、どう考えたっておさまりのつけようがない脚本を機関銃のようなしゃべりで取り敢えず枠内に収めてしまう声優さんの技量も素晴らしい。小田靜枝……突如声優界に現れたこのヒロイン役は本来放送業界の人だったらしいけど、まさに彼女という才能を得たことが、大地氏の狂った聞き取れない台詞というものを目指す異常なギャグを大成功させている。聞き取れなくって成功も何もないと言われそうだが、しかし台詞を意味解釈の言葉としてではなく、BGMや画面エフェクトと同列上の映像世界を演出する一つの効果部品として使う「レーン」という小品での実験は、確実にこどちゃで結実している。可能ならば紗南の超高速な喋りを追っかけても良いし、それを聞き流しながらシンクロする画面の動きを追ってもいいし、ミスマッチな部分を笑い飛ばすのも有りなのだ。つまり、量的なオーバーフローによって質的な多重化を狙ったものだとすれば、これ程見る者に優しい手法はないではないか。どれを取ってもゼロサム的な意味があるなら、それはつまり受け手に解 釈をゆだねているということになろう。見方による序列付けを行なおうとしているわけでもなければ、おたく的情報量の水増しでもない。純粋ギャグとしての一つの方法的な形態を大地氏はようやく確立したと言えるんじゃないか。それは、モンティパイソン以来の可能性の発見だと私などは思うのだがどうだろう。音声多重という環境に支えられた最も先端のテクノロジーに依拠する時代の新しい創造だと、実はちょっと思っている。

羽山VS紗南 〜僕の教室は戦場だった〜

 さて、回りくどいことはこのくらいにしていよいよ最大の焦点に触れよう。紗南が六年三組の教室へずびずわーっと駆け込むと、そこは猿どもが暴れ狂う「戦場」なのだ。授業中おかまいなしに男子どもはスリッパ投げサッカーボール投げ教科書投げ銅鑼は鳴り、大騒ぎで暴れまくっていた。まさに義務教育そっちのけの野生の王国。人間の尊厳もへったくれもない、騒ぎたいだけのガキ共が好き勝手にふるまう教室ジャングルと化していたのだ。朝もはよから叩き起こされ、眠い目こすってわざわざ学校くんだりまでやってきた紗南ちゃん、さすがにこの状況はニンニン袋の緒が切れそうである。これでは何しに学校へ鞄しょってやって来てるんだかわかりゃしない。しかしてこうなる原因を彼女はしっかととらえる。それは……担任の三屋先生(女)のふがいなさ、暴れる男子生徒にいじめられ泣かされている情けなさもあるけれど、そもそもそうした暴れん坊どもをまとめて焚き付け、先生いびりを仕切っている極悪な奴がいる。教室の一番後ろでふんぞりかえってステレオ聴きながらパンくわえている悪玉中の悪玉、羽山秋人そいつだ。果敢にも紗南はこの諸悪の根源たるボス猿に歯向かっていき、汚 い足をのけさせ自分の机を奪取するが、いくら彼女が先生を引きつけてまともな授業をやらせようと試みても荒れ狂った教室環境は是正されるべくもなく、暴走する男子生徒はおさまることの無いいたずらに終始する。男の田中先生が駆け付け、バカ男子どもをばびっと仕切ってくれるかと思いきや……件の羽山、胸ポケットの写真をちらつかせて「これをばらされてもいいのか?」と脅す。何の弱みを握られてか頼みの田中先生、たじたじひるんでだまりこむ。そうした一連の動きをじっと見据えているうちに、紗南の心に静かな怒りが点灯する。ラストシーンだ。彼女が手にした水鉄砲がボス猿羽山の顔に青インクを命中させる時、一転こどちゃはただならぬシリアスな雰囲気に包まれる。そこがすごい。それまで徹底したギャグとおちゃらけと落ち着きのないモーションで隙間なくコマを埋めてきた燃え上がるようなテンションが、ここに至ってふっと停止しされ、BGもサイレントに。無音の数秒。まるでそれは、この一瞬の緊張感を出したいがためのとめどもない喧騒とコメディの連弾であったのではないかと思わせるほど、見るもののインテンションを強力に引きつける。何が起こったのか? 瞬時に は判断がつかない。あのおちゃらけ紗南ちゃんがひきしまった真顔で水鉄砲を持って立ち塞がっている。
「あんた、いいかげんにしなよ。」
 この一言でじーんとしびれた人は実に多かろう。と同時に、こどちゃの印象を180度転覆させ、外殻にまぶされたコメディのパウダーを飛び散らせて、ハードなテーマを目指すコアな部分をいきなり露出するのだ。きょう雑たる音声の乱舞は全てこの一瞬への伏線である。無音を決める為の演出だったのかと気付く。
 紗南の警句は、羽山の「お前ら大人達の本性なんてとっくにばれてんだよ。」という脅し文句を受けて炸裂したものだ。ここまでは紗南もずっと羽山達のバカに付き合って、おちゃらけな対抗策で場を乗り切ろうとしている。いわばこどもの土俵に立った遊びだと考えてもいい。猿どもの小競り合いもバトルもこどもの世界のロジックで済ます通過儀式だ。しかし羽山が胸ポケットの写真をちらつかせて教師を強迫する時、この遊びが終わるのだ。その瞬間、彼等が教師達に向けている水鉄砲は明白な凶器となっているからだ。許される次元を超えた時、紗南の一括が炸裂する。そのタイミングが実に鋭かった。ほれぼれするほどに。小花先生は当初、羽山をもっと徹底して恐ろしい悪に仕立てあげ本物の銃なども描こうと思ったらしい。原作者が言わんとするところとは、こどもの範囲を超え出てしまった洒落にならない暴力性を秘めたワルの存在、ということだ。そういった歪なこどもを生み出してしまうということ自体が大人社会の責任であり、望まれぬ現実だということ。それに対してあくまでこどもの論理で収拾を図ろうとする紗南というキャラクターが要請されてきたに相違ない。暴力に対しては 刑罰という暴力でしか対処できないのが実社会のすさんだ実情だが、そうでない方法をこども達は自浄力によって模索しているのに違いない。拳銃を出してしまってはもう、こどものおもちゃでなくなってしまうという理由に基づき凶器は水鉄砲に縮小された。この色インクを仕込んだ大人社会へ歯向かう武器に、「こどものおもちゃ」というタイトルの内包する意味が重ね合わされているのは明らかだ。こどもは大人社会への不満と押し付けられる偽善に牙をむく。彼等の本性を見据え反抗を試みる。羽山がむける心の刃は実際どこを向くのか? 目の前の教師か? 学校か? これを作り出した教育官僚か? それとも……
 だがしかし、脈絡なく暴走する男の顔面にインクをぶちまけた紗南は、彼のその理由無き反抗を厳しくいさめる。「あんた、いいかげんにしなよ。」という台詞の裏に僕は、「あんた、子供がしていいことの範囲を超えてるよ。しゃれにならないことはもうやめな。」という言葉を聞いた気がした。同じこどもとして、彼女なり、羽山の反抗に理解するところもあったかもしれないが、人としての善悪の形成期に許される行為というものに限度があるということを彼女は厳しい母親に仕込まれている。(倉田家は、遅刻しそうになっっても朝飯全部たいらげて空っぽのお皿を見せなければならない教育だ。)だから、線引きも確実に決めてくるのではなかろうか。対峙する羽山と紗南のシリアスな目と目。この瞳の移り変わりにゾクゾクと震えがきてしまう。驚きを最小限表情の隅にこめながら、ゆっくりとシャツの袖でインクを拭い取る羽山。全く慌てないこのクールな動作もすごい。紗南も大物だが、ボス猿はっている羽山も根性すわったワルぶりで、互いに一歩も譲ったところを見せないのがすごい。こどちゃは戦いのアニメーションなのだ。ヒーローとヒロインの第一次接触が爽快な一話である。なだ れこむEDへの効果的つながりも絶妙な技で、イントロのかぶり方は「りりかSOS」の最終回ばりの決め技と言うべきか。ひいてはかつて東映がやっていた「ママレードボーイ」に於ける「引き」の手法を連想されるが、既にこの時点で大地式既定スタイルとして確立してしまっているのは特筆すべきことだろう。羽山VS紗南。どちらが上回るのか、とくと観賞させていただきたい。


2「教室まるごとサルの山」

【マミちゃん号泣!
 池に沈められたクラスメートのため、紗南はついにニンニン袋の緒が切れた!!】

いけにえの小兎

 こどちゃ第二話におけるもっともセンセーショナルで物議を醸したシーン、それは六年三組のクラスメートである黒髪の美少女マミちゃんが池に沈められる凶悪ないじめの場面だ。原作でも盛り込まれていたこの場面、マンガのコマで見るとわりあいすんなりサラッと流して見られてしまうのだが、TVアニメでいきなり着色画像にてつきつけられるといささかドギツイ印象がぬぐえない。特にえげつないのは、池から引きずり上げてもらった彼女が「うえええっ」と喉に詰まっていた池の水を吐き出す場面で、その前に棒でこずいて彼女を沈めていた少年が「こいつ、池の藻のんじまってるぜ、きったねー」と言っている辺りの言葉から想起して吐瀉物の内容まで想像してしまうのが、自分としてはどうしても駄目なのだ。水面に首だけ出して、棒で頭をグイグイ押されながら、悲鳴とも恐怖のわななきともつかぬうわずった声で呻き、両の眼から涙をしたたらすあのショッキングなマミちゃんの表情も、まったくもって駄目。しばらく彼女のせい惨な光景が脳裏を離れなくなってトラウマと化してしまった。現在は多少立ち直って、マミちゃんと来ればやっぱ池だね、という連想ができるようになったけど 、当時これがお子様向けアニメーションだとてっきり信じて漫然と笑いながら見ていた自分には、相当にショッキングな光景だったのである。いかにせよそれが集団的暴力であり、紗南という人間への威力的行為であるという点が特に救いがないと思った。羽山の狙いとしては、たたくと歯向かってくる紗南に直接手を下すよりはか弱い人間を生け贄として池に沈めることでの恣意的な仕返しという意味が明らかである。教師をすっぱ抜き写真で脅すのと同じ論理だ。マミちゃんがたまたま羽山のことを悪魔呼ばわりしたのがピンと彼の心に引っかかったのは特に運が悪かったと言わざるを得ない。無抵抗な弱い女子なら誰でも良かったが、たまたま言ってはならぬことをそれと気付かぬうちに口へ出してしまったマミちゃんが標的として選ばれたということ、この辺がやるせないものだ。集団でよってたかって彼女へストレスを投げ付ける救われなさ。別にみんなが彼女に悪意を抱いているわけではない。それなのに……。だが、それが人の集団としての現実であろう。目を背けたければそれは自由だが、およそ人間という獣がグループ内において取る普遍的な行動がこうした六年三組男子生徒達に表れていて、 確かに、保身に身をゆだねるものがこうした流れをひるがえすケースは存在しないのが現実だ。いじめの本質、それは集団的正義と表裏なのであり、内部からそれを批判するのは不可能なのである。その原罪性は重い。

ブレイクスルー紗南

 犯罪を止められる者、それは結局紗南のような存在でしかありえない。クラスの誰もが止められないけれど、彼女だけは池に飛び込んでマミちゃんを救える。なぜかというと紗南は六年三組の一匹狼だからである。彼女の生活圏は学校に限るものではなく、放送世界という大人の社会に関与していて級友達とは自立の毛並みが違う。あやまちをただし、暴力を暴力として、自信をもってそれに対抗できる捨て身の力を持てるのは、今回紗南その人だけなのだという事実。そして暴力に対する暴力では歯がたたないことも彼女は思い知る。これは小花流のシビアさだろう。マミちゃんが池の水を吐き出す様子を目撃して、ピキンと心にひびが入った紗南は、怒りによる体の震えを体験する。そして生まれてはじめて人を殴ってしまう。羽山がひっぱたかれる様、これはこれで一部の人達には爽快だろうと思うが、事態はそんなことでは解決しやしないはずだ。力に対する力では、紗南の女の細腕で男のそれにかないっこない。手を出した報いとして体育倉庫の中で羽山に首をしめられ、ようやく彼の力をリアルに認識している。もとよりクラスの男子どもを暴力でねじ伏せてボスにのぼりつめた男に、腕力でかな うはずがないのだと。その辺の、現実的な苦悩がシビアになまなましいなと、僕なんかは思う。実に小花的なニュアンスだ。
 集団暴行、屋上監禁、傷害、脅迫等々、この回は明らかに刑事罰的な犯罪内容を含んでいる。大人社会であればしかるべき処遇を受けねばならない、しゃれにならない事態だ。しかし少年法はそうした彼等にも自立更生の途を望む。罰は極力課さない。特に羽山の立場は微妙で、直接的な暴力行為を自ら人前で下すことはない為、責任を追及することは難しい。しかし、明らかに問題の根っこが彼に依存するのはしかりだ。こうした病理を批判的にではなく根本解決に向けて動かなければならないものだとしたら、なんとなく一連の暴力シーンの意味合いも見えてくるんじゃなかろうか。倉田紗南が暴くべきはまさしく彼等を暴力性へと向かわせている傷ついたこどもの精神構造にあるのであり、戦うべきはその病巣なのだ。それは決して力で引っ張り倒し脅して屈服させることでの解決を見ない。戦いは単純ではない。まして一介の女の子に何ができようかという思いもしばし募る。しかし、心のどこかで何かが起こることを彼女のバイタリティーの内部に期待させる面はいずくんぞ大であろう。その辺はすごいものだと思う。キャラの張り出しが生きている結果だと言えようか。
 解決の端緒は、ひきような手口を憶せず繰り出す紗南の側に、羽山の金魚のフンと思われていたあの剛君がついてくれたことだ。彼は羽山の力をアテにして取り巻く集団とは違う。彼だけが何故か羽山とイーブンなのだ。対等に口をきける唯一の存在だと言ってもいい。一見温厚そうな少年である彼がそうであるというのも、結局人と人との関係は腕力のみで決まるものではないということを如実に示している。彼自身「僕、秋人君のこと好きだから」と話しているように、好かれるだけの人間的公正さが羽山少年のどこかに存在しているんじゃないかという期待がそこにあるのだ。どこかで歯車が狂ってこうなったのだとしても、そうした正しい人間性を呼び戻すことができるんじゃないか……と。剛が紗南に期待するところとは、彼が知っている本当の秋人を取り戻して欲しいということだろう。それならば話しは早い。まずは徹底的にひきような手を使ってでも相手の弱点を突いて暴力性をはぎ取り、ついで内心を自白させて理解を得るのが筋道だ。ひきようはこどちゃのルール! そしてこどもにしか許されない特権なのではなかろうか。ひきような手が正義の旗印になる面がこどちゃの一番それらし い特色というのも、またナイスである気がする。

喜劇と悲劇の共存

 以上のようにこどちゃは、かなり重い問題意識のニュアンスを背負っていることがだんだん解明されてくる。表面的な部分のおちゃらけこそは大地マジックであり、そうした笑いにつられているうちにズルズルと深みにはめられているのが実は監督の狙いどおりだったりするのだ。もともと素性がヘビーな話でありシリアスに対処すべき作品内容を持つことが、逆説的に喜劇的な作風を要求している。なぜかと問うべくもなく、これは一つのバランス感覚なのだ。ハードな物語をハードなものとして追い込む途、それは誰しもがやっていることだろう。しかし大地氏はそうした当たり前な方法を援用する人ではない。彼の場合、例えばりりかの重要な泣きのシーンのコンテを書きながら、全く同時にその裏で妖精姫レーンのバカ話をどんどん作り出していっている過去がある。だからこどちゃにおけるギャグとシリアスの同時進行的な葛藤は、大地氏の内面的な精神状態の反映であろうと想像的に解釈できるのではないだろうか。そしてその作風は小花原作にもやはりあい通ずるものがあるのだということ。アニメでギャグをぶちかましまくる紗南は、原作に於ける紗南の生態と程度の差こそあれそれ程遊離し てはいない。あれだけ暴走した脚本を見せかけていても、倉田紗南というキャラクターのおちゃらけな本質を外してはいない。そのくせシリアスな部分で大地アニメはこれまた完璧にこどちゃの狙っている真摯なテーマを真芯から射ぬいている。ということは世の中に存在するギャグとかシリアスという分類づけそのものが不自然で作為的なものかもしれないではないか。こどちゃという作品世界をフォローしようとする時、広範なレパートリーはこれら相反する作劇の両方ともをカバーしていると言うべきなのかもしれない。そしてそれは、人間を語る上で極めて重要なスタンスであるということを推して付け加えなくては。即ちアンビバレンツなスタイルを共存させているダイナミックな活動体としての人間を表現すること、無論監督自身も、人である限りこの矛盾性の中からある人間的真実が止揚されてくるものだと言いたいが為に、こどちゃはあの過剰なノリを表現するのではないか。しかしてその作劇性は大地氏のクリエイターとしてのダイナミズムな全域性の反映に他ならないということだ。こどちゃを読むということは、すなわち大地を読むということと同義であるとまで言い切ってしまって良い。 その内容的な複雑さと表現されるもののクオリティは、それ自体として十分な研究テーマになりうべきものだ。
 笑っている紗南、おちゃらけている紗南、怒っている紗南、苦しんでいる紗南、それら全ての顔が紗南その人であるということ。アンビバレンツな彼女の人格性は、後々深刻な形で明らかになることだが、それは同時にこどちゃという作品の風格を決める重要なタームである。一面的に読まれることを拒否している。だから、この場で表された暴力の徴表も又、単純な悪のメルクマールではないのである。


3「目ン玉歯ン玉作戦だ!」

【羽山の弱点つけつけバンジージャンプ、駄目ならスッポン写真でとどめ刺せ!
 ひきようはこどちゃのルール、正義の旗印だー。】

時系列的演出差

 驚異のハイテンションアニメーションもさすがに3本目ともなると若干疲れが出てきたのだろうか。前半部、紗南VS羽山のバンジージャンプ勝負の下りが妙にテンション乗り切っていない気がする。ギャグのタイミングも外しているし、キャラクターの動きも悪く、止め絵がさえない。はたまた音楽とのかみ合いもちぐはぐな印象で、とても大地コンテとは信じがたい。しかしながら随所にはめこまれる人間の形態を超えた倉田紗南の変な顔、変なデザイン等、こんな絵作りをできるのはやっぱ氏をおいて他に無しとも思わせる。落書きに近いコンテ絵で表現された大地マンガをしっかりそのまま原画に焼き付けてしまったという印象だ。いかにもマンガ的なキャラクターを生かすも殺すも演出一つ。もっとカットを区切ってラテンのリズムに乗せ切って欲しかった。つかみは決して悪くないのだから。
 という具合に、若干こどちゃの勢いに瑣末な不安を抱いたのは放映当時もそうなのだが、かと言ってそれでは印象が薄いか? と言われると、決してそんなことはない。動きの悪いと思うAパートも亜矢ちゃんだけは妙になまめかしく動くし、羽山に勝てると思い込み、勢いだけで向こう見ずな勝負を挑んでしまった紗南のおまぬけさは、十分外した笑いを取っている。彼女ならばきっと羽山を叩きのめしてくれるに違いない、行ったれやー! 的なノリにつつまれた弱点突っ込み作戦が当て外れになる様子を追うという意味付けとしては、意識的に力の抜けるような演技をさせているのかもしれない。その証拠に、Bパートへなだれこむと画面が俄然息を吹き返すのだから、げんきんなもんである。田中先生と三屋先生が保健室でちちくりあっている場面を写真に撮られ、羽山がそれをネタに教師を脅していると発覚する辺りで、紗南の心は怒りよりも、ちちくり・・・うひょー何それ、やらぴ−、的な反応が駆け巡り、思わずちちくりマンボーを歌い出すに至っては、もはやしかめっつらして少年の悪さを追及するスタンスですらない。シリアス入って熱くなりかかっていた雰囲気が若干和み、それじゃど うやっていい気になってるあいつをギャフンと言わせてみましょーか……的戦略へとストーリーが転嫁してゆく。紗南がこどもとしての仕返しを「目にはめんたま、歯には歯んたま作戦」と名付けるところなど、もはや状況を楽しんでいるとしか思えないではないか。奴の息の根を止めてぐうの音も出なくしてやるのには、ゲーム感覚での対決こそが有効ルールなのだ。羽山と同じシリアスな土俵で戦っちゃいけないのである。少なくとも倉田紗南という少女が、彼女であり続ける為に。だからマジカルナースエンジェルに仮装して玲君と悪知恵対談している場面が凄く好きな感じ。しつこくしつこく、ちちくりの内容についてくらいつくぜんじろうのキャラクター性もうまい具合に笑いが利いている。この辺も、既に書いた音声多重ギャグの粋である。これがあるから、こどちゃはやめられないって感じだ。

家庭を叩き割る少年

 紗南をめぐるコメディタッチのノリが続く中、このままおちゃらけムードで最後まで落とすのかというと、やっぱりでも違う。問題の芯の部分はキッチリかきこむ姿勢がどこまでも失われないのがこどちゃのルールだ。紗南が剛君を従えて羽山家へ草むらから接近を図ると、そこからは若い女の金切り声が上る。「悪魔、お前は悪魔だ。もう帰ってくるな!」玄関から叩き出されて来る少年。投げ付けられる罵倒と憎悪の塊。一瞬、何が起こったのかわからなくさせるほどそれは異様な雰囲気だ。紗南は、こんな家庭がはたしてあるのだろうか? と大きな疑問を抱く。少年は黙って玄関を出、満身の不満をぶつけるように門灯を素手で叩き割る! 左の手からどっぷりと赤い血がしたたってこぼれ落ちる。毒々しい痛みが少年に覆いかぶさっていくが、その中にあの反抗心燃え盛る鋭利な目付きを垣間見る時、彼が追い込まれているところの精神的背景がちらつく。叩き壊したものは、家庭。あたたかい光を投げ掛ける門灯の光は欺瞞の色をたたえていたから。されどそうすることで傷つくのは、悲しいことに自分自身であり続ける。血を流しながら反抗し、拒絶し、怒りと憎しみをため続ける……そんな羽 山少年の心が見える。救いは何一つ存在しないのだろうか。たまたまその場へ仕事から帰ってきた父も、何一つ息子に声をかけることなく、まるで存在を無視するかのように家の中へ吸い込まれ消える時、さすがに紗南の気持ちの中には、この理解し難い光景へのわだかまりと問題の所在への疑問がわき起こるのだ。興味深いのは、一緒にそれを目撃していた剛君が何もコメントしないことだろう。彼は……別段驚く風でもなく、淡々とその光景を凝視している。剛君は、羽山家のそうした荒廃ぶりを前から知っていたのだ。知った上で、羽山のことが好きなのだ。本当は彼にちゃんとして欲しい、まともに学校へ通って普通に授業を受けて欲しいと思っている。性格的にかなりちぐはぐな秋人と剛の微妙な心の関係というものがさりげなく見え隠れしているところは、さすがである。ひきような手口を友人のために敢えて使い、更正を試みる彼の心の葛藤をこそ、もっと如実に描き出すべきなのかもしれない。そして「羽山の家庭どうなってるの?」と聞かれ、答えずにうつむく彼の横顔にこそ、見えにくいこども達の痛みにふるえた姿が隠されている。病んでいるのは何処までなのか? あるいは、教室まるご とその社会的背景からして病んでいるのではないか? 彼等を喧騒と混沌に駆り立てるわけのわからないエネルギーとは、その背景で圧迫され続ける本人の心の裏返しではないのか? 環境が生み出す心因的ストレスの重層がこども達を押しつぶそうとしているから、彼等は学校というテリトリーの中で仲間と反撃の牙をむく。そうしたコントロールの効かない未発達な獣性を仕切っているのが、病根のより深い羽山なのだとしたら、紗南の戦うべきものは目に見える友人だけではないはずだ。そこで何が起こっているのかということについては追々こどちゃの物語が追究していってくれるはずだが、ともかく忘れてならないのは、こども達の無心な笑顔が実は仮面かも知れぬということであり、こどもはこどもなりに世の中の奔流を渡り歩いている現実が存在するという点だろう。


4「一匹狼ヒュールルル」

【羽山ボス猿交代に、これで教室も平和になると思ったが甘かった。
 五味政権わずか一時間。そして剛の大暴れ! 野獣が騒ぐ六年三組。】

一匹狼楽しくないない

 羽山はクラスのボス猿。それはまぎれもない事実だ。しかしボス猿という表現の内包する意味はなんであろうか? クラスを仕切っていた力とは何か? 暴力による支配と序列の構造について、一つのモデルケースが透かして見られる事件が起こる。紗南が羽山のスキをついてポラロイドカメラで撮ったスッポン写真によって、事態は急変した。教師たちのスキャンダルを握ってしたい放題やってきた男が今度は自分のスキャンダル写真をネタに脅されているのだから、まるで処置無しといったところだろう。しかもよりによってそのねたでゆするのが天敵倉田紗南であるのだから、今まで怖いものなしであった少年ももはや絶体絶命の立場である。ぐうの音も出ない。いや、まじで。
 早朝の教室、剛君の立ち会いのもと、これからは教室でおとなしくしてバカ男子どもをたきつけたりしないと約束させられ、羽山のこれまでの独裁政権は終わった。そして女子達みんなの前へ引っぱり出され、特にあのマミちゃんの前で「悪かった。もうしない。」と謝らせられた時、彼の心に根差す攻撃性が遮断されたのを見届けた気がした。羽山秋人……その心理的背景の中で何が起こっているのだろうか。
 そもそも羽山自身が、はなっから教室で浮き上がった存在であったのが先ず明るみに出る。クラスの男子達に慕われリーダーシップを発揮していたのかと思いきや、実情はそんなに健全なものではない。羽山自身はペコペコして言う事をきく彼等に対し、なんら心のつながりを持っていなかった。気分的に寄するところが何もなかったのだ。ただ連中の、人の言いなりでへりくだった様子がおかしくってバカの相手をしてやってたんだとうそぶく羽山の言葉が、たぶん額面通りなのだろうと解すると冷たいものが走る気がする。孤立化し、人に心を許さないトゲだらけの男が、その暴力を後ろ盾にしようと勝手に寄り集まってきたうぞうむぞうどもに持ち上げられていただけなのだとしたら、より罪深いのは一体誰だろうか。乾いた力の序列のみがなんだか浮き上がって見える。それは、はじめからねじまがった心理状態で互いを牽制し合っていただけの、暴力による象徴秩序であったとしか思えない。
 羽山の力をそいでも、すぐに五味というナンバー2がボスにのしあがって、それまでの序列を維持し始める。とすると、問題を羽山のリーダーシップに見ていた紗南は大きな間違いを犯していたことになるのではないか。解体すべきは彼等無責任な一般男子達のひくつな献身、即ちそうせねば序列から弾き出され攻撃されるのではないかというあやまった恐怖心である。猿どもが強い求心力によってしか集団を組めぬところに、あるいはまた徒党を組まなければいられないところに、いかにも現代的なこずるい少年像が出ている気がする。誰しも自分を守る為に一番力の強いものへとかしづくのだ。しかしその力とは何であろう。一撃で相手を殴り倒せることだろうか。それとも自分で自分の行動に責任とって後始末をつけられることだろうか。
 女子の前で平謝りであった羽山の姿を見ていて、男子達は彼のことをださいと評価し、求心力が一気に失せる。しかしあの時の羽山は本当にださかったかと考えるならば、あれだけの状況にも拘らず憶することなくあやまって処理できたのは小学生男子としては立派なことだと思うし、態度的に女々しいところは全くなかった。謝る前、羽山は自分が酷いいじめ方をしたマミちゃんの沈鬱な表情を目の当たりにつきつけられ、鋭い眼光で何かを読み取っていた。自分のしでかした事がリピートされ、彼女には潔くあるべきと確信したからそうしたのではなかったか。自分の責任に対峙する力が彼にはまだ存在した。結果的に紗南の言いなりになっているように見えたとしても、クラスのボス猿をやめたのもマミちゃんにあやまったのも厳然たる羽山の意思である。そうでなければ動くまい。前からそうしたかった彼にとって、そいつはタイミングのいいきっかけであったにすぎない。
 しかし、そうして羽山が学校での悪さに飽き飽きしていた自分をすら放棄しておとなしい個人に戻ったとしても、根本的なところで何も解決してはいない。紗南の大いなる誤算は、より孤立の度合いを深めて一匹狼化した羽山の後ろ姿を見るまでもなく明白だ。五味政権は結局のところ羽山をないがしろにすることでは成立せず、わずか一時間で消えるが、クラスがリーダーを失って静粛を取り戻したにせよその形態は、依然としてボス羽山の潜在的な暴力の持つ求心力に支えられるものだし、かえってそうしたリーディングを失った不安定な構造は批判の対象を失った内在的暴力不安へと秩序の根拠を変容させる。何一つ変わったものなどありはしないということ。逆に、孤独の淵を延々と深める羽山の精神状態は、自分の罪を自覚することでますます自身を追い込んでいくのではないかという不安がある。事件を契機に少年は十分傷ついているし、バカをやる反抗の自由さえ放棄した彼の魂は、自己の抹消へとひたすら向かうより他ない。ニヒリズムにとらわれた生存の寂しさを誰が思うのか。彼には既に学校にも家にも居場所がなく、ただ街角を目的なくさまようだけなのだ。一匹狼も一匹豚も、世界ど ころか自身へのニヒリズムに陥ったら、あとは自滅への途しか残らないではないか。救いと思えるものは今の所、何処にも存在しない。
 
お母さんと叫ぶ少年

 だが……今も昔もずっと関係の変わらない友が一人だけ秋人には居る。大木剛少年。「さいきんの秋人君はやり過ぎだから、元に戻ってほしい」として、紗南のひきような手口に荷担した彼は、どういう状態であろうとどこまでも友であり続けようとしている。前にも書いたが、剛と秋人の奇妙な友情関係には色々とわからないところが多い。何か共通に通じ合うものがあればこそ、正反対とも言うべき二人の性格がお互いに補填しあっていけるのだ。それはなんなのであろうか。本日のエピソードをひもといて言えるのは、それが「母親」というキーワードによって読み解かれるのではないかということだ。毎年、大木剛少年は授業中に「お母さん」と大きな声で先生にこたえてしまい、それをクラスメートに笑い者にされて「お母さんの悪口はいうなー!!」と暴れるのが恒例らしい。そんでもってそれを空手ちょっぷで止めるのが羽山君の役目なのだということも、いつもそれを亜矢ちゃんは見ていたのだということも、明らかにされている。従ってこの二人の関係は、まさに今のような事件を重ねながら出来上がってきた互いの病癖の予防的役割なのではないかという類推を呼ぶのだ。剛のマザコン体質 について、からかい気味にコメントした男子生徒は、恐ろしい目で羽山に睨みつけられ「自分の母親を好きで何が悪いんだ!?」と、恫喝される。その目には、他人事であるはずなのに明瞭な憎しみの色がにじんでいる。そこまで彼をむきにさせる剛の母親というキーワードを元に、紗南がふと、羽山の家の家族構成に思い至るのは不思議なことではない。あの、ヒステリーで狂ったようにわめき散らす姉と、子供たちに無関心な父に取り囲まれていては、確かに息もできないくらい辛いに違いない。しかしそこに母親がいたら、空気は変わるはずだ。「うちはお父さんいないけど、羽山のお母さんは……いないの? どうして?」
 こどちゃにおける家族、それは特に重要な、核心に迫ったテーマである。だんだんその辺の本当の狙いが明らかになってくる。紗南自身、恋人でヒモの玲君や優しいママや親切なお手伝いの志村さんというファミリーの日常的姿が描かれているが、そこに父親の姿は無い。まるでそれが当たり前のように流されている。が、どう考えてもそれは変則的なことなのである。父が居ないという事実になぜあれ程彼女はケロッとしていられるのかということ、その辺がだんだん気になり始める。羽山の方はやはり、自分の家に母親がいないということに強い劣等感を抱いているのだ。彼の家に家庭を感じられぬのも、母親不在というハンディが重くのしかかっているのは間違いない。そうでなければあれほど母親という言葉に鋭く反応したりはしないはず。剛君の件に関しても、母親は健康体であるようだが、どうして無意識に「お母さん」という言葉が口をついて出てしまうほど依存しているのかがひっ掛かってくる。しかも悪口を言われた時のあの切れっぷりは尋常ではなく、父ではなくて母にこだわっている点も気になる。確かに、どのキャラクターを取っても表面上は落ち着いているように見えて心のありか が健全でないというのが、こどちゃに出てくるこども達のある種のパターン的傾向である気がする。徐々に紗南の視点が問題児当人からその家庭へとスライドしていく様子は、今もって再度眺めていてもゾクゾクするのだ。やがてはそうしたストーリーの積み重なりが紗南自身の身上へと転倒してゆく今後の驚きの展開も含めて、ようやくこどちゃが本当に狙うものが見え始めてきたことは歓迎すべきであると同時に、問題の質に憂いを感じる気持ちも深刻化していくだろう。けだし、問題はまだまだ、山積みなんだな、紗南の言う通りに。


5「羽山グレグレどこへ行く」

【ナイフを出して「俺を殺してくれ」とせがむ少年。
 床に叩きつけられる皿と、殺人者よばわりの日常が、彼の〔家庭〕だった。】

俺を殺してくれよ

 六年三組のクラスの平和と秩序の為とはいえ、羽山に対しスッポン写真脅迫という血も涙もないひきような手を使って強引におとなしくさせてしまった紗南。結果として彼がクラス内でも居場所を失ってしまい、いつも一人だけで寂しく行動しているのを見るにつけ、さすがにそうなる原因を作ってしまった責任を感じずにはいられない。羽山なんてちょっと前までは極悪だったんだから同情なんかせずにほっとけばいいとクラスメートは言うけれど、ボス猿返上をきっかけに誰とも口をきかなくなってしまった孤立無援の少年のことがなんだか気になって気になってしょうがないのだ。やっぱりその辺りは紗南らしいというか、決して彼のことが嫌いとかそういうわけではないんだから普通にみんなと明るくふるまって欲しいと願ってしまうところが、生きることにポジティブな意味を見出だそうとしている彼女なりのものの考え方だろう。今のままでは彼の思っていることや孤独を望む理由なんてわからない。わからないけど、何かほっておけなくてついつい彼を追っかけおせっかいをやいてしまう。優しさ? 友情? それでなければ何だろう? 紗南は羽山の心の陰りに必然的な興味を抱いている。ど ことなく魅きつけられるのはなぜなのだろうか。羽山とは正反対の天真爛漫お気楽少女であるはずの紗南だけど、彼の気持ちなんて全然わからないと言っている紗南だけど、どこかで二人はつながっているのだとしたら?  気になって仕方がないのは、どこかでおいてきぼりにしてきたもう一人の自分を見るような気がしてならないからだったとしたら……
 「何でも話して、あたしでよければ何でもしてあげるよ。」と、100パ−セントの好意で話しかけてみたにもかかわらず、帰ってきた言葉は「じゃあ俺を殺してくれよ!」という救いのない台詞だったことがより一層、紗南の混迷を深める。「なんでそういう暗いことを言うのかー、本気で心配してるのにー、キー!! 」とキレまくる少女だが、羽山の本気度は高い。ナイフまで持ち歩いているのには驚くと同時に、生きることを拒否したい少年の本当の理由をつかみかねる。生きてるだけで丸儲けと考える者にとって、それは許しがたい行動だ。しかし、死にたいとまで願う羽山の心の底には、この世に生きていることすらいたたまれない負の気持ちが澱のように沈殿していることに気付くことが必要なようだ。自分がこの世に生を受けていることすら許されないと感じてしまう理由とは何であろうか。ともあれ、「俺の気持ちをわかりもしないくせにでしゃばって頭を突っ込んでくるな、迷惑だ!」ときつい反撃の言葉をくらった紗南は、思わず目に涙を浮かべてしまう。よく考えると彼女らしくないシーンだ。あんなにもろくも泣いてしまうキャラクターだったなんて、多分誰も予想していなかっただろう。当の本人にとっても、実はなんで泣いているのかわからなかったらしい。けれども一つだけ言えるのは、紗南が見掛けほど強い人間じゃないってことだ。やっぱり涙もろい、普通の女の子なのである。そうした弱さを覆い隠し、気持ちを克服する為に、あえて強い自分を演出しているのだとしたら、彼女自身十分羽山 に対抗するほどの感情の複雑さを持っていると言えるんじゃないか。それは人の心の激しい拒否の姿勢に出くわしたショックの涙であると同時に、羽山への興味を抱く自分の存在のありようを真っ向から否定されたが故の涙であったに相違ない。

羽山家の事情

 どこまでも衝突を繰り返すしかないように見える二人だが、その反面トゲとトゲのぶつかりあいが徐々に気持ちの変遷を生んでいるのも事実だと思うわけだ。例えば、紗南が涙を浮かべたことについて、羽山の表情に明快な戸惑いの色が浮かんで見える。彼にとってみれば自分の存在をこれほどまで気に掛け泣いてくれる程の人間に出会ったのは生まれて初めてだったのではあるまいか。100パーセントの好意のうち、10パーセントぐらいはこの時、至極感情に訴えるかたちで羽山少年の心に浸透したのではないかという感触を得た。というのも、更にくじけることなく羽山の身辺につきまとうほとんどストーカーな少女に対し、その後は明確な拒否のポーズではなくすっとぼけた呆れ顔が出てこようとしているからだ。きわめつけは、羽山家にぜんじろうのサイン色紙を携えて堂々とずーずーしく上がりこんでいく紗南を慌てて制止しようとする明人君のリアクションで、それが完全に迷惑というよりは、困ったな、どうしよう、ちょっと待ってくれよー的な、彼には珍しい取り乱しようだったのが好感である。なにせ台所ではいつものごとく夏美ねえちゃんがヒステリー起こして皿割ってるんだから、 さすがの羽山も身内の恥を前にタジタジというところか。自分のことを隠したがる恥ずかしがり屋の少年がそのままここまで育ってしまった感は強い。隠したいのは自分の心を含めて、実はこの家の内情そのものだった、というわけだ。
 夏美さんは叫ぶ。「あんたがお母さん殺したのよ! 悪魔、どっか行けー!!」……激しい罵倒の台詞が容赦なく浴びせかけられ、叩き割られた皿が床に散乱する。一見してこの人が心を病んでいるのは明瞭だが、ヒステリーの原因が個人的心因ストレスから転嫁されて全面的に羽山秋人という弟の存在そのものに集約される様は、もはや理屈ではなく根深い感情的恨みが朗々と存在することを物語る。さすがにぜんじろうの色紙を持ってきてくれた「他人」倉田紗南ちゃんの姿を見つけると、狂ったようなあらぶれかたはおさまってただのお姉さんに戻るのだが、それでも弟への口のききかたは刺々しい。多分この人は、自分でももはやどうすることもできないくらい分裂してしまっているのだろう。取り敢えずカウンセリングなり精治に通わせるなりすべきなのはこのお姉さんなのだが、彼女がそうなってしまう原因というか理由はそれなりにあった。羽山の母は、秋人を生んだことで亡くなってしまわれたのだという。この家に欠けているもの、母親の笑顔と愛情は、秋人少年がこの世に生を受けるのと引き換えに消えたのだ。だから羽山は、母というものがどういった代物なのか知らない。この根源的な 喪失感が人格形成に与えた影響は大きいようで、ぼそぼそとしかしゃべれない自閉症的症状も、明らかにこのことが原因の主となっている。一方、彼の姉にしてみれば母親の優しさを体で知っているだけに余計辛いのだろう。一番愛されたい時期に突如それを奪われてしまった悲しみ。しかも彼女から母親を奪った原因が自分の弟だと知った時、血を分けた彼への形容しがたい憎しみがわきあがることは想像に難くない。それが独善的わがままであったとしても、彼なんかがこの家でのうのうと生きているよりはよっぽどお母さんに生きていて欲しかったはずなのだ。そのことを考えるだけでつい錯乱してしまう彼女に、つい同情を寄せる気持ちも少しはある。結局、二人とも母を失ったまま12年間、互いを罵りながら生活してきた。愛の無い12年間、どちらもとことん辛かったに相違ない。
 こうした家庭の事情を、羽山はようやく紗南へ話した。それだけ信頼を得たということなのかもしれない。ある程度仕方がないと思っても、余程近しい人間にしか彼の性格はそういうことを話さないだろうと思うのだ。多分剛君辺りはその辺の事情をやっぱり知っていると思うから、紗南で二人目ということになろうか。だが、状況を把握した紗南ちゃんは開口一発「あんたの家、おかしいよ! 間違ってるよ! 変だよ!(うおおおっ)」とズバズバ本音で断罪してしまうのだ。この無礼なまでのストレートさが、やっぱりえも言われぬ魅力なんだね。さすがの羽山君もここでは同情こそされ非難される覚えはないって顔をしているのだが、どっこい倉田紗南はそれで許しちゃぁくれないのだ。「あたし、ドラマ頑張る!」(おいおい)と、唐突にバリバリ叫んで疾風のように走り去っていく彼女を見送って、羽山はぼーぜんというスタイルでつっ立つ。でも、窓辺の夏美さんは普通のいいお姉さんだし、彼等のすれちがった心に母親の愛情を気付かせればなんとかならないか……、うん、大丈夫だ! というわけで、女優倉田紗南の羽山家救済ドラマは演技に一段と熱が入るのである。(すごい展開だ。)
 それはいかにも小学生らしい思い込みと突っ走り……と冷静に形容できるかもしれない。そんなに簡単にこじれた人間関係を修復することができるわけがないと、思われるむきも多かろう。けれど紗南の請け負っているお仕事というのは、そう思う人の気持ちにアプローチする為の一番の方法でもあるとも思うのだ。TVという、人の気持ちに直截訴えかけるようなメディアを通して感情を演出するからこそ、単純な言葉での語りかけやお節介と呼ばれるような行為を飛び越えられるかもしれない、というのがここでのテーマだろう。紗南はそれが出来るかもしれない才能豊かな娘だ。自ら他人の感情にはいっていくことで人間心理の核心部分をつかみ、相手の心を真芯からゆさぶることのできる実力を秘めた女の子だ。だから、他の人では無理だとしても、女優倉田紗南ならばきっとそれが出来るんじゃないかと。
 信じて待ってみてもいいんじゃないか。羽山問題は同時的に倉田紗南、女優としての目覚めを意味するものなのだ。


6「親子丼バカまずくて食えん」

【あーちゃん、お母さんはね、あーちゃんを愛してるから頑張って産んだのよ。
 紗南のお母さんごっこ炸裂! 愛のひざまくら篇】

恢復する家族

 大地、桜井コンビによる素晴らしくキレの良いコンテは、見るものを爽快感の極みへと導く。完成度の高い画面作りであるのは言うまでもない。さすがに羽山をテーマにした物語の一番の見せ場だけあって、登場人物のかきこみの深さがえも言われない。加えて七変化紗南ちゃんの妙なおちゃらけた顔からドシリアスな涙ものの場面まで、凝った絵が魅せまくる。今まで試行錯誤ぎみに組み立てられてきたおっかなびっくりのこどちゃフィールドが一つの完成形態へ到達した感があり、ファンはこれだけでも感涙するのではないだろうか。画面の組み立て方からエピソードの構成迄、練りに練られた感があって、その仕事内容を眺めているだけでほれぼれとしてくるのだ。人々の心の動きも大変つかみやすい。倉田紗南のドラマをきっかけに恢復する人々の心情表現がかなり緻密で無駄も少なく、ストレートに変化への兆しが伝わってくる。詩情感においてもこどちゃは抜群の水準をいっているのではないだろうか。最後はほのぼのとあったかくなって終わる辺り快感で、やっぱりアニメはこうでなくちゃね、と実感させるのだ。紗南の秘めたる「癒し」の力が開花成功した物語で、テーマとしては「りりか」 以来貫かれる大地式シリアスの正体。まさに監督がアニメという表現形式に込めた命懸けの福音であるわけだ。
 ともかく羽山父を街角でとっつかまえて「あんた大バカよ、バカ父!」と裁断してしまう辺りが、倉田紗南のとんでもないところである。他人であるとか、相手がおじさんであるといった遠慮は、紗南ちゃんの側にはこの際無い。言いたいことはとにかく言って、いきなし宣戦布告路線なのが素晴らしい。紗南のこのストレートさには脱帽である。一方、言われた羽山父としては、街角で部下と二人連れだって歩いていたらいきなり喫茶店から見知らぬ女の子(良く見たら少しだけ知ってる女の子だった)が飛び出してきて「羽山父ー!」とぞんざいに呼び捨てにされ、指まで指されて「あんた大バカよー!!」と罵倒されたのだから、もうこれは降ってわいた災難のようなものだろう。その天災少女に対し、ぼー然と「やぁ、これは、秋人がいつも仲良くしてもらってるクラスメートの……」等とのたまっているのだから、倉田紗南の傍若無人的遠慮会釈無いず抜けた態度に匹敵して、羽山父も相当に変な親父なのである。変、なのだがこの人、顔がいつも笑ってなくて声もただただシリアスなので考えていることがわからない。さすが羽山父! いや、そんなこと誉めている場合ではない。とにもかくにも倉 田紗南一世一代の名演技を見てもらう為、8時からTV見てくださいねーそいじゃぁー! と絶叫依頼してずばーんと打ち合わせに戻るのが強烈。火の球のような少女と形容されたその過激な行動は、良く相手に意思を伝えているかどうかわからないが、それでなんとかなっているところがすごいのかもしれない。わけのわからない勢いあってのこどちゃだし、桜井氏の超腕の見せ所なのもイッツオールライト。まぁ終わりなければ全てよし、なんである。
 思うにね、倉田紗南も相当に自己表現の下手な女なんだよね。ちゃんと挨拶して、自分がTVに出ているから、とっても印象に残るドラマのはずだから是非とも見てくださいネって普通に頼めばいいわけなんだけど、そういうまだるっこしいことなんていちいちやってられんーってところがある。彼女がまだ小学生なので世の中との接触の仕方を知らない、と言われればそうなんだけど、何となくその行動様式を見てても常にスマートさに欠ける気がするのだ。自分の気持ちとか、自分の願いといったものをちゃんとした形で表現出来ない不器用さは、割合羽山の自閉症的しゃべりに通じるものがある。紗南は勢いがあって明るい分友達を作るのも上手だが、かえって親友(まぶだち)を作るのは苦手なんじゃなかろうか。それは……矢張り当人が本心をきちんと語りたがらない性格に十分な理由がありそうだ。自己表現の下手くそさを切れの良い芸仕込みのおちゃらけでいつも明るくごまかしているが、そうした一連の行動がシニカルなかたちで紗南自身にかえっていく時が怖い。たとえば倉田紗南が日常化した芸を取り払えと要求された時、彼女はどんな顔を見せるだろうか。彼女自身、自己分析はキチン とできていないように思える。
 車での問い掛け。これほど熱くなるのはやっぱり羽山の為? と玲君に聞かれて、「そうじゃないと思う。世の中にあんな家族が存在するということが許せない。なんか腹が立つの。」と紗南は答えている。多分そうした、羽山一家に感じている気持ちの悪さ、イライラ、怒りというのは本物だろう。だが、「世の中に」と一般化するほど世間を知っているわけじゃない。否定しようがしまいが、彼女が潜在的に羽山本人に興味を抱いているということが内発的な憤りの原因なのは、理由として明らかだ。ひっかかったのはあくまで羽山という人間性なのだ。ちっとも自分のことはしゃべろうとせず、心に高い壁を築いて他人が踏み込むことを許さない羽山。一人きりで構わないとうそぶきつつ、孤独におしつぶされて死にたいとさえ願っている羽山。そうしたアウトロー的な生き方が紗南には気になって気になって仕方がない。本能的にほうっておけないのだ。何故か? 紗南自身がそうした心の病気をどこかに押し殺しているのだとしたら、つじつまは合う。救い出したいのは自分自身の眠れる弱さなのではないかと僕は思う。
 ドラマの内容は少女の宣伝文句どおり迫真の演技であった。来海麻子という名女優が絡んだこの家族の恢復物語は、俗なお涙頂戴的ストーリーであるにもかかわらず、演技者の力が心の真実へと昇華するまでの迫力をもっていた。羽山家では夜8時、親子丼バカと名付けられた父と娘がお茶の間で、背を向け合いながら半信半疑TVを見つめる。(二人が別々の画面で同じドラマを見ているというのがミソだ。)番組の内容を理解してか紗南の名演にうたれてかわからないが、フツーの人夏美姉さんは涙を浮かべて、「私、本当は秋人にひどいことを……」と静かに懺悔する。父は、家族の問題をほうり出してきた責任を今こそ痛感しはじめる。悪いのは誰ということではなくて、そう、みんなが自分の家庭を取り戻そうと努力してこなかったことが、長い長いすれちがいの日々を生んできたのだ。話し合えばわかるはずなのに、それぞれの弱さに逃げ込んで、一緒に住む者達を拒絶してきたのだ。本当にそう、それだけのこと……そして、母のことが話題に上ること自体、父親の前でタブーになっていた12年間ではなかったか。思いを押し殺せば殺す程、せつない思いがあふれ出る。自ら愛に飢えているこ とを告白するのでなければ、心に固い鎧と槍を構えて他者を傷つけるより仕方があるまい。しかしそれは尚、自分自身を深く傷つけるものだとしたら……救われる道はただ、一番近しい者への告白しかない。そういう人間心理の切実さに訴えかけられる脚本はすごいと思う。

お母さんごっこ

 一方、いつものライフスタイルとはいえ夜中に子供一人家を出て外食をしている羽山秋人。一番ドラマを見て欲しい彼が家にいないと知って、紗南は血相を変え夜8時を駆け抜ける。やはり少女が救いたいと願うのは羽山少年なのではなかろうか。お母さんの優しさを、思いやりを、愛情を、どうして伝えたらよいのかという疑問に突き当たった時出てくるのは、「お母さんごっこ」。このセンスにはいかにも紗南ちゃんなのでドヒーっという感じで見てしまうが、彼女の方はすっかりマジ。結局夜の公園で倉田にひっつかまった少年は、小学生タレント扮するなりきりお母さん劇場につきあわされることになるのだ。
 なんて言って良いのか、ここからの紗南ちゃんの怪演はすごい。役作りにしたって、少しの間顔を手で覆って「私はお母さん、お母さん、お母さん……」と呪文のように自己暗示をかけるだけで、顔つきから言葉遣いまで一瞬にして羽山母になりかわってしまっているのだから、羽山でなくってもおっかなびっくりである。鼻からジュース吹いたってしょーがないってもんだ。そしておおーっっと、今度は日本のお母さんの伝家の宝刀、ひざまくら!! 慌てて逃げようとする羽山の襟首をひっつかんで「おとなしく言うことを聞きなさい、あーちゃん。」だもの、たまらんですなコレは。しかも言うこと聞かないとスッポンだし。うへー。「ヘイ、カモン!」と招いてヒザパンパーンには、私しゃ倒れそうになりましただ。紗南ちゃんおいしすぎるよね。この辺の下りは確かに原作のエッセンスそのままなんだろうけど、アニメ的演出が異常さに磨きをかけていて怖いくらいに完成度の高いコメディになっているのだ。こどちゃがアニメ化して本当に良かったと感涙する一瞬であるかもしれない。
 全開、うまみが効いた紗南ちゃんのひざまくらシーン。並の男なら、「はぁースリスリふんがふんが」状態なのであろうが、何しろ舞台設定はお母さんのひざまくらなのであるからして、そういう不謹慎な反応は許されんです。というわけで羽山君は気持ち良さげに紗南の膝上に頭を横たわらせている。そっと目を閉じると、まるでそこに本当の母親が存在しているような心地好さだ。(多分。)で、演技に入る紗南。台詞「あーちゃん、ママはね、あーちゃんを愛しているから頑張って生んだのよ。だから、ママの分も頑張って生きてね。」吸い込まれるような言葉に、羽山自身、理屈ではなく体感的に母親を感じていく。そして、そして。こどもに戻った羽山は、熱でダウン。丁度そこへ彼を迎えに来る改心した父。手を差し伸べた息子にはたかれ、押しつぶすような声で「お前の目は小学生の目じゃないな……すまない。」とあやまる父。羽山の瞳に驚きの色が浮かぶ。多分それは、はじめて父が少年に詫びた場面ではなかったろうか。小学生の目を持てなくなるまでほったらかしにしてきた今までの無関心さを心から詫びるものだったと思うが、そういう父の言葉を受けたのすら、羽山にとってはこれ が初めてだったのだ。こどもであることを父親に拒否されていると誤解していた少年のはりつめた心がやわらぎ、父の肩にひょいと抱えあげられて家路につく時、羽山をめぐる家庭の問題が一つ、根本の部分で解決したことを連想させる。そして少年が被ったであろう心の変化を思えば、あながち紗南のおせっかいが余計なものではなかったと安心させられるのだ。いや、それどころか羽山少年にとっての紗南の存在は、クラスメートとか友達とか、うるさいマブダチ以上のものになったに違いない。生まれてはじめて知った女の膝の上の安らぎを、男はそう簡単に忘れられるもんじゃないと、こう思うわけなんだよね。


7「来海クルクル恋敵」

【恋人でヒモの玲君に過去の恋人発覚!
 約束のサングラスが床に割れる。紗南の恋はどうなってしまうのか?】

羽山、その後

 ここまでの話しは、羽山秋人の心の漂流を描くのが主眼だった。が、めでたくも先週のドラマとお母さんごっこ事件を転機に羽山家の体質は激変、なんとあの陰険ヒステリーお姉ちゃんが秋人の為にお粥を作ってくれた上、父は一晩寝ずに看病してくれたという。あれだけ荒廃していた家族の風景がこうまで変わってしまうとなると戸惑うのは彼だけに非ずだろうが、ともかくみんなが努力して少しずつ家の中の雰囲気を明るくしていけるようなつかみは見えてきた。だからもう、ほうっておいても大丈夫なのかもしれない。あれだけハードに渋くキメていた父が、土鍋を手の上でカタカタお手玉する場面などを見ていると、やっぱもう大丈夫なのかねーと実感できるからこどちゃは偉大なのだ。シリアスのポイントをピシッと押さえつつ、そうでない部分ていうのはギャグでっぐいぐい引っ張る演出法ていうのは、こどちゃの基本的スタイルとして完成している。あとはこの緩急使い分けた作風をどこまで洗練してゆけるかという点に成否がかかっているのだろう。ギャグスタイルが定着してきたことは、こどちゃ世界にとっては日常性への回帰と言える。それは安心の構図であるとも言える。
 そんなわけで、子供の目にいつの間にか戻った羽山少年は、病み上がりでちょっと気怠そうな顔色を見せながら教室へやってきた。それで紗南ちゃんも例の脅迫スッポン写真を本人に渡してしまう。「なんかもう大丈夫そうだから。」と言う辺り、完全にもう羽山の心の中を見切ってしまっているのが、やるねーと思う。こんなものをちらつかせなくてもにこやかに「あーちゃん」と呼び掛けるだけで、羽山の弱点を今や突けるからだということで、家庭環境や母親の愛情コンプレックスのかたまりだった心の内を覗かれてしまった以上、もう彼は紗南に心を開いてゆくよりしょうがないのだ。反抗して前のようなギロ目をむいても無駄。紗南に迫力で負けてしまう羽山はもう牙をむかれた狼状態で、完全に倉田パワーに手なづけられてしまっている辺り、まぁほのぼのとしていい傾向なのかもしれない。やつあたりで机をけ倒している秋人君がなんかこどもの反抗心そのもののように見えて可愛く思えてしまう。もう、悪魔と呼ばれた時代は去ったということなのだろう。羽山のワイルドさに魅かれていた人達にはいささか物足りないと思われるかもしれないけれどね。それよりも問題とすべきことはもう、 前回から始まってしまっているのだ。今後の紗南自身の気持ちのありように密接にかかわってくる大事件発生! である。

恋人でヒモの関係式

 当初から気になっていた玲君と紗南ちゃんの関係について、スポットを当てる時がいよいよやってきた。「恋人でヒモなの!」と公言する紗南の言葉が額面通りであるとすると、これはかなり危険な設定であるにちがいない。それは一体事実なのか? 恋人というのはどういった認識のことを言っているのか? 今、小学六年生倉田紗南自身の恋のスタイルが問われようとしているようだ。
 とてもうらやましいことに玲君は、しょっちゅう紗南ちゃんと一緒に寝ている。いつもおねまな紗南ちゃんと一緒だなんて、全国400万人の紗南ちゃんファンはきっと歯ぎしりをして悔しがっているに違いない。ただ、倉田実紗子ママの忠告が一つあって、中学入るまではほっぺにチュー以上教えんなよ! ……だそうだから、紗南ちゃんの乙女の純情はバッチオッケー安全日って信じていいのかもしれない。うん、良かった。しかーし!! そうであるなら、恋人でヒモというのはどういうことなのか? 気になって気になって仕方の無い人も多かろう。どうも会話の端々を追っていると、恋人というのはあくまで精神的なところとライフスタイルが密接である部分を指しているらしく、玲君が紗南ちゃんの単なるマネージャー以上の扱いであることを物語っているようだ。マネージメントというよりは仕事抜きの愛情関係で繋がれているのだ。無論、ヒモというくらいだから熱を入れているのは紗南ちゃんの方ということになるが、毎月おこづかいをちゃーんと自分のお給料からあげているから、女優(こどもだけど)倉田紗南のれっきとしたヒモということになるらしい。ポイントは、紗南があげている お金が「給与」ではなくて「おこづかい」と呼ばれていることだろう。彼女の頭の中では「おこづかいをあげる男性=ヒモ」という単純公式が成り立っている。ママもそう呼んでいることを咎めないのがこの定義の要因である。だが、クラスメートは「ヒモかかえている小学生」と聞いてやっぱ驚きを隠せないし、一番その辺りを気にしているのは仲のいい男の子である羽山と大木剛君の二人。大人のヒモがついている小学生に手を出すわけにもいかないから、男の子としては複雑だ。で、剛君の「ところでヒモって何?」という質問が小学生らしくてほっと一息。いやぁ、私も気になってはいたんですけどね。
 深夜、ビデオに録画してあった例のドラマの来海麻子の見せ場のシーンを繰り返し繰り返し無表情に再生している玲の後ろ姿を見ていて、ただならぬものを感じた人は多かろう。そう! 実はこの大女優と紗南ちゃんのマネージャーの間には深い過去があったのだ。紗南のドラマ出演で二人が接触しかかったことが、何かを大きく変えようとしている。それは紗南と玲君との甘い蜜月の終わりか、あるいはいつかこの日の訪れが約束されていたものなのだろうか。傷つくのは誰か。もう、画面から目が離せない。
 
玲、サングラスを外す時

 こだわる人は、玲というキャラクターがどうして寝床に入ってもグラサンを外さないのかを前から気にかけていたにちがいない。目が悪いとか余程変な顔をしているとかいうような事情が無ければ、たとえ黒子役に徹するマネージャー稼業といえども不自然である。この異常性を端緒として、玲と紗南をめぐる関係への疑問は既知の課題であった。どうもサングラスをかけ続けていることを要求しているのは紗南ちゃんらしい。玲君がサングラスを紗南の言う通りずっとかけ続けることが、彼なりヒモとしての務めなのだとしたら、もしこれが外されることがあったならば重要な掟が破られたことになる。あいまいな関係の日々が壊れてしまうかもしれないのだ。紗南は、来海麻子と会ってからの放送局での玲君の行動や彼女の話題のふり方を回想して次第に危機感を強めていくのだが、これらフラッシュバックするイメージを、現実に麻子が玲を追い詰めた場面と混成していく非常にダイナミックなオーバーラップ描写は上手い! まさかまさか……(麻子さん)玲君狙いかー!? ときたところで、しかし「まさかまさかのまっさかりー!」と、まさかり音頭になだれこむ(しかもベンツの上で……)あたり に至っては、もうこちらの予測できる範囲をぶち越えていて、ただただ唖然と踊る紗南ちゃんを眺めるより他ないわけですよ。ここに於いて、大地・桜井路線を更に過激にオーバードライブするワタナベシンイチなる人物に大いなるおそれと崇拝を抱かずにはいられないってもんです。
 続く修羅場。「玲、玲なんでしょ!」とつめよる女優に、マネージャーは素っ気なく「勘違いなんじゃないですか?」とかわす。しかし女の追及の方が圧倒的に鋭い。「外しなさいよ、そのサングラス!!」と麻子が迫り、ぐいっと手が延びる時、真相に気付いてふっとんできた紗南ちゃんが横滑りでフレームに入ってくる。このスピーディなレイアウト感覚には正直ほれぼれした。紗南が玲君をとられまいと必死の様子。対する、麻子が玲を取り返そうと必死の様子。両者が変則的にカットバックしながら同一フレームへとなだれこむ動きの妙、見せ方の粋は、常人の仕業ではないと思った。計算しつくしてこのようなタイミングに追い込めるとはとても思えない。これは一大修辞的盛り上げ方である。
 玲のサングラスが外される。封印されていた玲の心が解き放たれ、紗南との約束が悲しくも破れる。幼い恋の蜜月の終焉だ。大人の恋とこどもの恋が交錯する玲のサングラスに注目は絞られる。今、ようやく玲君の謎の正体が白日の下にさらされるのだ。愛の棺を担ぐのは果たしてどちらの女性なのか? 待て、次回。


8「ジュースまみれの初キッス」

【グラサン玲に、紗南への気持ちを問いつめる羽山。なめた恋愛ごっこに敵意メラメラ、 新宿都庁の展望室で紗南にキスをぶちかます! これが羽山のライバル宣言。】

ロリコンパラダイス

 相模玲君が紗南ちゃんの恋人役と聞いても、なにせこの少女マンガには変な人達がわんさか出てくるもので、ん〜そんなもんかね…と軽く流していた。しかし麻子さんのご指摘通り「しばらく会わないうちにロリコンにはしっちゃったの?」状態の玲君に果たして明日はあるのかという、恥情のもつれのわくわくドラマが始まった。高校時代つきあっていたという麻子の言葉が本当ならば、紗南にとってこれ程強力なライバルは居まい。というか、そもそも紗南ちゃんと玲君の関係が普通に恋人同士って呼べるものなのかどうかをあらためて問い掛けねばならぬのだろう。玲君が小学生の紗南ちゃんを本当に女として好きなんだろうか? という点に疑問を持ってしまうともう、はまりっぱなしになること請け合いだ。ロリコンパワー炸裂男なら紗南ちゃんバッチオッケーなところだが、他に本命がいるにもかかわらず紗南ちゃんの恋人役を演じているのだとすれば、やはりここらでちゃんとしておかないと彼女の将来にかかわる問題なのかも知れぬ。そういう意味で、麻子嬢の登場は紗南の成長への試練であろうし、自分の思い込みを見つめ直すいい機会であったわけだ。
 結論からいくと、玲が今でも麻子に多量の思いを残しているのは確実だ。例の深夜ビデオ巻き戻し事件といい、今回の写真集・ブロマイド・切抜き発覚事件といい、否定したところで彼のおたく的執着心は一目瞭然で、女々しいまでに彼女の姿を今でも追いかけ続けているのが事実なわけだ。こうした彼の後ろ向きな行動が発覚するにつれ、いくら口頭で偉そうに渋い二枚目を気取って過去は葬ったようなことをのたまっても、ボロがボロボロ飛び出してきてみっともなさこの上なく、玲の情けないキャラクターがどんどん浮き彫りになっていくのだ。二枚目なのにホント惜しいが、そんな彼を好き(?)になってしまった紗南ちゃんこそが運のつき。まぁ悪いのは100パーセント玲君の態度なんで石投げたい人はガンガン投げてやってよろしい。我らが紗南っぺと一緒におねむのロリコンパラダイスを今までのうのうと続けてきた報いである。
 ただ、玲が回想の中で物語る紗南ちゃんとの出会いのシーンは、すごく心があったまるいいお話なんだよね。紗南は一体いくつなんだろう? まだ小学校に上がったばかりくらいの女の子が、ママに連れられ新宿を歩いていて玲を見つける。若いのにすっかり人生に疲れ果てた顔をしてボロ雑巾のように街角の隅にうずくまっているお兄ちゃん。それがなんだかほっておけなくて、お弁当をあげたりしているうちに気に入り、ついには自宅へ連れて帰ってしまう……。捨て犬ならぬ捨て人間を拾ってきてしまった娘をまのあたりに、さすがの実紗子ママもドッヒー! と驚きのおたけび。これは強力だ。でもこのお母さん、そのまま娘のわがままを聞いてわけのわからない浮浪者の男を家に上げてあげたのだね。お風呂に入れて綺麗に身支度をして、そうしたら結構いい男じゃない。紗南ちゃんも、彼がすっかり気に入ってなついてしまい、ねぇねぇ恋人になってーヒモでもいいよ、私、お仕事してるの……っておねだりする辺りは、ちょっとほろりとしてしまう。そう、玲君の性格や立場を考えれば、そのままこの純粋な女の子の側に居て恋人役を引き受けてあげても良いかな? って気にもなると思うのだ 。彼はやっぱり彼女のことがすごく好きなのだ。はじめて話したその日から、あどけない笑顔と屈託のないおしゃべり、そして純な優しさに恋してる。ただそれはきっと年月が過ぎれば壊れてしまっても良かったものなのかもしれない。いや、いつか壊れなければいけないものだったのかも。父親代わりに愛を授け、自らも享受していた玲にとって、こんな日はいつかやってくるべきものだったのではないか。紗南の年頃を考えるとむしろ遅過ぎたくらいかもしれない。父性を知らずにある程度物心がつくまで育ってしまった彼女にとってみれば、取り戻したい愛情はどんなに多かったことだろう。今だってまだ、足りないくらいなのだ。彼と一緒にベッドへ入りながら一日のお話をしなければ安らかに眠れない女の子は、実はとびっきりの寂しがり屋さんだったとしたら、玲君の立場をあながち責められるものではあるまい。
 
恋人候補

 それまで知らなかった「母」の感覚を紗南のお母さんごっこで味わった羽山君は、それっきりすっかり彼女の虜になってしまったと見て間違いないと思う。同世代であるがゆえに、それが自然な恋心に向かったとしても不思議はない。彼は彼女のことが気になって気になって仕方がないのだ。そうなってくると実はもう存在する「恋人」に敵愾心を抱くのも当然の成り行きで、会話にもいきなり割り込んで「どーせそんなの、ごっこだろ!?」と悪態をついてみせる。「昔の女、そっちが本命だろ。」とも。鋭い…余りにも鋭い羽山。この一番核心をズバリとついた意見に、さすがの紗南もはげしい動揺を受ける。そいつは一番あっては欲しくないことであると同時に、最も可能性が高いように思えてしまう心の底の不安であった。だが、その時点ではまだ彼女は恋人役の彼の心境そのものを疑ってはいない。ひっかかる部分はあっても、賢明に彼の言葉を信じようとするのだ。「一番大切な人」と言ってくれたあの人の言葉を信じようとする気持ちに偽りはない。そして、それはそのままそっとしておいてあげたいものであるかもしれないが、恋人候補として宣戦布告することを決意した羽山秋人は玲の偽善的 態度を「ちっとも恋愛なんてしてねーじゃん!」と断罪し、喧嘩を仕掛ける。火花炸裂、茶店の二人。いい大人を演じ続けてきた玲の欺瞞を適格に突き、行動の正当性を一気に転覆する羽山の言葉は、鋭すぎて声もない。となりにいる剛君に至っては、言ってる言葉の意味が難しくてちっともわかってない。それを言ってはおしまいだよ、と思えるような視点でズバズバとなれあいの恋物語を切り裂く羽山の容赦ない言葉の暴力性は強烈だが、語る権利があるのも又彼だからだと思えば、紗南当人にとっては羽山の登場がかえって救いになるかもしれぬという予感がある。今、玲は来海麻子の出現によって戸惑っているのだ。もし紗南が捨てられるとしたら、愛の空白を埋めるのは偽りの恋愛ごっこを許容しない羽山というシビアな人格より他ないのかもしれない。
 東京都庁の社会科見学。玲君に関するもやもやをふっきる為にハイテンションで臨んだ紗南は、高所恐怖症の為エレベーターの中で既に青ざめている羽山がなんだか可愛そうになってくる。本当は笑い者にして遊ぶつもりだったのに。ヒサエちゃんがジュースを飲んでちょっと気分が良くなったと聞いて、それじゃ私もと羽山にジュースを買ってきてやったりする優しさなのだが、あろうことか目の前でけつまずいて彼のどたまに丸ごとぶっかけてしまう。「あ、あちきは決して悪気はナッシングどすえ。」という名台詞を吐きながらうろたえた紗南ちゃん、羽山の顔をフキフキ。そのスキを突いて、あろうことか彼は彼女の唇にキスぶちかますー!! これを凝視し、固まるクラスじゅうの視線。真ん丸に見開かれる紗南ちゃんのまなこ。一瞬の静寂・・・続くこの世のものとは思えない野獣の咆哮。いや、東京じゅうをつんざくゴジラのおたけびか!? トラックは転覆し、ビルの看板は落ち、都庁へ迎えにきていた玲君は大パニックに陥るが、これは紗南ちゃんの心理描写のモンティパイソン的表現だろう(謎)。うーむ、誰がこの展開を予想し得ただろうか? しかし羽山少年にしてみればそれなりの理由 があったのである。都庁に上る前、クラスの女子達が亜矢ちゃんの好きな人の話しでワイワイ盛り上がっていた。その時、紗南は「好きならとっとと告白して、キスの一つや二つとっととかましちゃえー!」とか何とか曰っている。ヒサエちゃんの「紗南ちゃん、はたちの恋人とキスしたことあんの?」と問う質問に、紗南「あったりまえじゃん」。きゃーっといろめきたつ女子たち。実際はここに「ほっぺだけだけど……」というモノローグが入るのだが、羽山にとっちゃそんなのはわからんわけで、そーか、奴はそーくるのか、だったら俺もやってやるぜ! と、こう来るのも自然な男の心理なのである。何しろグラサンの恋愛ごっこと違ってこの俺はマジだからな、とでも言いたいのかもしれない。とまれ、気になる女の唇が間近に迫った一大チャンスが訪れたとすれば、この行動はあまりにも当然な成り行きというものだ。尤もされた方は一体何事が起こったのかわけわかめだろうが。
 本章のシナリオ本仮タイトルは「羽山のライバル宣言?」だが、この挑発的行為は剛君への、そして相模玲への羽山なり、一世一代のライバル宣言だ。そして不器用な、倉田紗南への愛情告白であった。……もー目茶目茶だね、この話し(汗)。


9「ピンチピンチの紗南の恋」

【羽山とのキスで愛する彼に会わせる顔のない紗南。お面かぶってワカメずるずる。
 さてもグラサン玲君と来海麻子が倉田家で密会! 二人のよりは戻るのか?】

キッスの条件

 羽山秋人のキスぶちかましに荒れるこどちゃ。「あっ」と驚き、顔を離し、濡れた唇に手をやる紗南ちゃんが、んー色っぽい! だがしかしキッスの後始末はもう大混線で、新宿都庁はもーわやくちゃになってしまう。特にまぁそう、紗南ちゃんに前から思いを寄せていたあの剛君が黙っておれるわけがないと思いきや、案の定野獣のようにキレまくっちゃって大変なことになっていったのは皆さん想像の通りです。しかも今回ばっかりは制止役の羽山君の空手チョップも出ない。いや、たとえ出たとしても悪事の当事者たる羽山がチョップして剛の怒りがおさまるとは考えられない。やることやってひょうひょうとポッケに手を突っ込み歩いていく羽山も、にくい。迷惑被ったのは六年三組の男女全員と、後片付けさせられる都庁の清掃職員であろう。愛は残酷なバイアコンデンス・ミ・アモーレ。(意味全然わかってません)
 一つ新たな事実が発覚する。どうやら羽山のファーストキスは幼稚園の時に済ましているらしい。さすが羽山さん、クラスで一番可愛い女をひっつかまえてぶちゅーっとかましたそうな。しかも十円賭けていたというから、ひょうひょう少年の極悪ぶりもまぁ本当に幼少の頃から板についたもんである。一方の紗南ちゃんは、愛する玲君にくちびるのキスはとっておきなさいと言われて大切に守ってきたというから、もう、涙・涙。別に好きでもなんでもなくって、ちょっち態度が気になるからからかって遊んでいた男にいきなりファーストキスぶちかまされた日にゃ、お母様御免なさい、紗南は小六にして傷物になってしまいました、となるのも当然かもしれない。(当然か?)。何よりも玲君に対する気持ちの裏切りを感じて、紗南は思い悩んでしまっているのがすごく可愛いのだ。一途なのだ。純粋に、玲君だけを愛すればこそ、きっといつか彼とロマンティックなファーストキスができる日が来ると信じて待っていた乙女心、愛らしいではないか。こんなに好かれているのに、玲君て、いけないですよね。いつか彼女に大好きな男の子が現れる日の為ファーストキスはしなかった、紗南が大人になって ちゃんとした恋に目覚めるまでは自分が代役として見守っていてあげよう、という大人の分別が働いていたのだろうけど、その配慮が逆に彼女を傷つけるかもしれないという感じは持たなかったのだろうか。それとも本気でもしかしたら、彼女が大人になってもずっとずっと愛してあげようと、恋人役でいてあげようと考えていたのだろうか。いずれにせよ、現在の玲君が紗南のことをこども扱いしているのは事実だろうし、恋愛ごっこを気取って遊んであげる年頃はもう過ぎているのではないかということ。実紗子さんも、今までは父親のいない彼女のわがままで幼い行動を大目に見てきたけど、さすがに玲の恋人らしい女性が現れて、娘に真実をわからせるべき時機の到来を感じていた。特に紗南へ最近ちょっかい出している少年の目を見て、本当の恋愛をするべき年齢の訪れを直感したのだ。羽山は、真剣だ。全人格で紗南を気に入り、選び、守ろうとしている。きっとそういうことがわかったから、実紗子さんは彼にケーキを出してあげたのだろう。さもなければやっぱり鞭でしばかれていたかもしれない(玲君楽しそう……)等々。

大人の恋

 トピックはやっぱり、女優来海麻子が単身倉田家に乗り込んできたことだろう。あやしい変装をしてまで、20分も屋敷の周りをウロウロしていたこの人の心情を思うと、かなりしつこいヘビ型人間のイメージがわく。もとい、情の深い女性であることがわかる。どんなにか、どんなにか玲のことを思い、行方不明の彼を探し続けてきたのだろうかということ。やっと見つけた彼が、小学六年生の女の子のマネージャーでしかも、少女と恋人同士であると聞かされた時の動揺をすら考えてしまう。確かに、紗南ちゃんとの対談で半信半疑玲君との仲を尋ねた時、彼女の顔はいささか気色ばみ、ややあせりの色がこみあげていた。強く、紗南という女の存在を意識していたに違いない。それゆえにこうも情熱的なアプローチを玲に仕掛けることにしたのではないか。何かずっとためていたものが爆発したような気がする。彼女なり、必死で身を投げ出すことで玲の心をあの少女から引き離そうとしている。そんな、健気で強くはげしい麻子の恋は、女優という厳しい仕事を一人で立派にこなしてここまでのし上がってきた精神的強さと裏腹のものだ。みかけは超美人で気さくで優しいお姉さんに見えるかもしれな いが、中身は信念の固さや思い込みの強さ、自分への厳しさというものでど根性が確立されている。玲の優柔不断さとは正反対なしっかりものなのだ。麻子の恋は、高校時代の彼との思い出時代のことはいざしらず、今は正式な大人の恋愛を要求している。それは年月が過ぎても壊れることのない堅実さと誠意を伴ったものだ。相模が、「今はお前のことをかまってやれない」とかわしても、「じゃあいつだったらいいの?」と食らいつく。この人の思い込みのすごさ。玲のどこがそんなに好きなのかわからないが、きっと自分の夢と同じくらい彼のことも大切に思ってきたのだろう。夢がかなった今、距離をおいてきた彼の元へ戻ってこようとする麻子は、欲張りな女だろうか? それとも純愛を貫こうとする一途な迫真の恋か?
 いずれにせよ今の紗南ちゃんには太刀打ちできる相手ではないということ。そして玲も、彼女と対面すれば確実にこうなることを恐れていたのだ。麻子という女を知り尽くしていた。ああ、誰がこの二人を止められよう! 少女紗南が泣いても叫んでも、どうにもならない大人の恋という壁が厳然と立ちふさがる時、いじらしいまでにしゃくり上げながら玲の胸元にすがる紗南の内面的な「女」と「こども」が痛い。こういう痛さを彼女はこれから、ゆっくりと味わっていくのだ。こどもが大人になるってことは、どうしようもない位の心の痛みを知るということなのである。


10「恋はピヨピヨとんでった」

【あおのちゃんのヒヨコ。夢を見せてくれる愛のヒヨコ。
 玲君との恋が本物じゃなかったと気付いたとき、切ない紗南の初恋が終わる。】

恋を夢見る時代

 紗南と玲君の仲がこじれにこじれ、二人とも同じ家に住みながらぎくしゃくが続く中、ようやく実紗子さんの助っ人が入る。「玲君どうして? 玲君は私の恋人だよね、そうだよね……」懸命に愛を求めてすがりつく少女の姿はあまりにも切ないが、玲の前に麻子が現れてしまった以上、二人は今までのような生活を続けるわけにはいかないのだ。同じく、泣いて胸に飛び込んできた麻子を玲は、抱き締めているから。だから彼はきっと、彼女の方を選ぶことだろう。もう、紗南が自分で気付くのを待ってはいられなくなってしまったから、結局母親の実紗子さんがはっきり真実を伝えるべき時だ。玲君自身はいつまでたっても「紗南ちゃんは僕の一番大切な子です。」の一点張りでまるきり解決に向かわないし、紗南に問い詰められれば問い詰められる程自分の立場に窮して言葉を失ってしまうのだから、結局荒療治と言われようと酷いと言われようと、実紗子さんがつっこみハンマーでピコピコ娘の頭をひっぱたきながら残酷な真実を教えてやるよりしょうがない。そういういざという時のシビアさがこの人には備わっているから、普段放任とも思えるこどものしつけが成り立つのだろう。今までは夢を見 てこられた。だけど、幼年期はもう終わりを告げている。紗南が自分を振り返る為に、そしていつまで経っても優柔不断な玲の身代わりになって、実紗子さんが悪役に徹する様は熱く感じられた。「あんたのは本当の恋なんかじゃない!」と言い切るのは、本当は母として辛いことだったのじゃないだろうか。けれども今断ち切っておかなければ後から余計傷つくのはわが娘であるから、心を鬼にして裁断しているように思える。つまり、もし本当に恋だったとしたら……の部分をこの人は恐れているのではないかと読んでしまうのだ。
 もし……もし、玲の前に来海麻子という本命が現れなかったとしたら、この二人の関係はどうなっていたのだろうか。玲君は本気で紗南ちゃんを大切な子として扱っていたし、互いに依存するような心の交流があった。あの雨の街角で絶望の中から拾ってくれた天真爛漫な彼女を、玲はないがしろにすることなどできないはずだ。だからもし麻子という心の一番の痛みに触れるような、人生そのものを喪失してしまう原因となるような女が存在していなかったとしたら、玲はずっとずっと紗南の傍らについていて彼女が拒む日まで一緒にお休みしていたのじゃないだろうか。中学に入っても高校に入っても、彼女が「玲君はヒモなんだから一緒に寝ようね。」って言ってくれる限り一緒に寝てあげてたんじゃないかと思う。そうすることで彼女自身もなんらかの救いを得ていたはずだ。大切だから壊せない、そしてずっと一緒についていてあげたい、という彼の気持ちは本物なのである。どこまでが恋愛ごっこでどこからがほんものの恋、なんていう線引きが存在するのは、所詮第三者的考え方ではないだろうか。この世で一番大切なものと呼べることがはっきりしていれば、彼にとってそれが娘であろうが妹 であろうがあるいは恋人であろうが、何だって良かったかもしれないのだ。そう、一番でありさえすれば……。
 今、玲君にとって、紗南が一番であり続けることが難しくなったということを、実紗子が大人の視点で見出だしたところにキーがある。紗南は、自分が彼に一番愛されるべき存在であると信じている。だが現実は違う。もしこのままずるずると問題を引きずって、玲が麻子の心を拒み切れなくなってしまった時、(いや実際にもう、そうなりつつあるから)、紗南は自分が捨てられたことに気付いてしまう。実紗子さんが回避したかったのは、そういう事態ではなかろうか。玲が同じ女として紗南より麻子を選んでしまえば、娘が取り返しのつかない傷を負うことになる。そうなる前に、今迄のは変則的な恋愛ごっこだったのよ、というある角度から見た現実を突き付けて諦めさせることができれば、紗南は無分別だった自分への気恥ずかしさを体験するだけで済む。あるいはまた玲自身も、結局こどもでしかなかった紗南を選びきれなかった負い目を深く感じずに済むかもしれない。いささか強引に紗南を説得する実紗子は、玲が「違う」と口をはさもうとしてもそれを許さない。今、甘やかしてはどちらのためにもならないことをわかっていたから、こどもをこどもとして罵倒しきったのだろうというのが 、僕の結論だ。泥沼に陥る前に二人は引き裂かれたと受け取っても構わない。そしてそれは仕方がないことだったと思うのである。

あおのちゃんのヒヨコ

 「あんたのは本当の恋なんかじゃない!」と言い切られ、不満爆発の紗南ちゃんは、六年三組で大暴れ。そこへ低学年の可愛い女の子がひょっこりやってくる。紗南ちゃんのファンだという女の子は、あおのちゃんと言ってあの剛君の妹なんだそうだから驚きである。ん〜可愛い! と乙女チックなリアクションに燃ゆる紗南。しかもあおのちゃんのポシェットには卵が入っている。彼女は大切にしまってあるその卵からヒナが孵るのを楽しみに待っているのだ。スーパーで買った1パック6個入り158円の卵を、大事に大事にあっためているという。さすがにこのエピソード挿入には恐れ入るしかない。丁度彼女は、はじめて玲君を街角で拾った頃の紗南ちゃんに似ていた。そして紗南は玲君に恋人になってくれとねだったし、あおのちゃんはヒナが孵るように願っているのだ。望まれぬ願いとは決して思いもよらずに。
 結局紗南は、あおのちゃんの為に学校を抜け出してヒヨコを買ってきてしまった。素早くポシェットの中の卵を入れ替えて、優しいあおのちゃんを喜ばせてあげようというお姉さんのアイデアなんだが、兄の剛君は承諾してもクラスのひねくれ羽山は「やめとけよ。」とつっけんどんに否定する。そんなことして普通の卵があっためたら孵ったなんていう間違った知識を与えて何になる? かえって大人になった時笑い者になるのは彼女なんだぞ、という彼にしてはもっともな意見だった。紗南の考えと羽山の考えは根本の部分で対立してしまうが、二人とも間違っているわけではない。ただ両者の育ち方がてきめんに反映された形だ。紗南は、実紗子ママにうんとあまやかされて育ったし、小さい頃から現実なんて知らずに夢だけ見てていいのよと教わった幸福な娘だ。(無論その言葉の裏には深い意味が隠されている。)一方の羽山は、ろくに父親にかまってもらえず、更には姉にいたぶられ続け、こども心に現実の厳しさをたたき込まれてきた。夢を見ていられる時間なんてほとんど与えられずに育ったのだ。従ってそうした羽山のレアリスト的シニカルさと、紗南の小六でもまだ玲君との夢を見ていら れたロマンチスト的お気楽さとでは、あまりにも世の中の見方が食い違い過ぎる。その辺りの対立の図式がなかなか示唆的である。結局、剛君が妹の為にしてくれることをOKしているところをみると彼の判断が一般常識的なものとも言える。クリスマスイブにサンタさんがプレゼントを持ってきてくれるのと同じ理屈だ。ただし、夢はいつか覚めなければならない。覚めてしまった時、夢見せてくれた大人たちにそっと感謝して、今度は自分の子供に夢を見せてやれるならそれは是であるし、覚めてしまった時に深く傷を負うようならば否。初めから夢なんて見ずにいた方が幸せだということも勿論あり得る。そして……紗南は気付いてしまったのだ。玲君が見せてくれた夢のヒヨコのことに。ヒヨコは初めから居なかった。紗南が抱いていたのは、永久に孵らない空っぽの卵だったのだとしたら……恋愛だと信じて付き合っていた彼女は、あおのちゃんと同じ。羽山の言う通り、ごっこでしかなかったわけだ。それが随分なダメージでもあった。今迄そのことに気付かなかった自分が猛烈に恥ずかしくなってきてしまったのだ。今の玲君が、紗南ちゃんに夢を見せてあげる為にずっと付き合っているふりをして くれているのか、という点は僕としては微妙だと思うのだが、少なくともはじめて紗南と出会って彼女の天真爛漫さに魅かれ倉田家の居候になった時には、やっぱりちっちゃな彼女の言う通りにして夢見せてあげるのを彼なりの願いとしていたことは間違いなかろう。満面の笑顔で喜んでくれるなら、ずっと言う通りにしてあげたいという気持ちは良くわかる。とすれば、紗南が目覚める日というのもやはりいつか訪れねばならなかったものなのかもしれない。残酷でも、どこかで線を引かなければ彼女は大人になれない。
 「あんたは見かけは大人っぽいけど、中身はまだこどもなのよ!」とピシャリ言ってのける実紗子ママの台詞は本当にその通りであった。初め僕は、倉田紗南という芸能活動しながらクラスでもバシッと仕切っている人気者の彼女のことを随分大人っぽい女の子と思わされていた。小六で二十歳のヒモまで居るという設定がその印象に輪をかけていた。そんな彼女に、何か過剰に期待をかけすぎていたのかもしれない。大人かお負けのこまっしゃくれた偉そうなことを喋りまくっていて、それがTV番組「こどものおもちゃ」でも受けまくっていた要素だが、実際の紗南ちゃんの精神年齢はひょっとしたらクラスメートの誰よりも低いままだったりはしないか。まだ、現実に覚めきらない部分がかなり残っている女の子ではないか。そしてそういう彼女を実紗子さんが意識的に愛情いっぱい育ててきたのだとしたら、それは現実の過酷さを突き付けて羽山秋人少年のような傷を負わせたくない一心であったのやも知れぬ。実紗子ママも又、夢のヒヨコを紗南に与えていた張本人ではないかというここでの結論だ。紗南のアマちゃんな部分が羽山というシビアな鏡によって、反発しあいながらだんだん根っこの部 分まで見えてくる辺りが、本当の面白さであるように思える。
 
そこに彼が居てくれる

 紗南が、自分の恋愛が思い込みだったと気付かされて、あまりの気恥ずかしさにいたたまれず家を飛び出していった時、彼女の異常な様子に気付いて追いかけてくれた男の子、それが羽山だった。そして泣いている紗南の顔を見て驚く。彼が紗南の泣き顔を見たのはこれで二度目だ。というか、家族の前以外で紗南が誰かに泣いているところを見られること自体異常なことなのだ。普段は明るくおちゃらけて教室でノリノリサンバを歌っている紗南の、これ程のもろさを知っているのは今、羽山だけ。それは偶然なのだろうか。涙を見せられる相手とそうでない相手を、紗南自身選んでいるようにも思える。羽山の前だから涙が出るということが、女の子である彼女にはあるかもしれない。人は自分より強い人間、そして自分の気持ちをわかってくれるより包容力のある人間の前で泣けるものだから、それが二人の絆になっていってもいいように思える。いつか紗南が羽山の心の傷のことを聞いてくれたように、今、羽山が紗南の泣きたくなるような恥ずかしい話を聞いてやっている事実がなんとも言えないではないか。二人の育った境遇があまりにも違い過ぎる為に意見はなかなかかみ合わないが、本質的に は心の痛みをどこかに抱き続けているこども同士、という重なりあうキャラクターをどちらもそれとなく感じ取っている。だから喧嘩していてもいいコンビに思えてくるのだ。人間的な質の近さが、心を接近させているのだとここでは解したい。
 紗南にとっては何よりも、泣きたいくらい辛い時に彼が傍らにいて話を聞いてくれるということが重要だ。その役回りは実紗子ママでも玲君でも無理だということ。こどもの紗南に対して、こどもの気持ちとしての近さが一番に必要だ。多分、今まで彼女は泣ける場所を持っていなかった。仮面と虚飾の生活の中で生きていたと思う。明るさは生来のものだが、それすらも劇団で開発された演技の大成ではないかということ。ネイティブな開放性は、むしろ内面的にアンハッピーな部分を反映してきたものではなかろうか。彼女は生まれてきた時から人に好かれること、明るく生きることを意識しながら育ってきたし、そうすることでマイナスな部分の自己を克服してきた。崩落することを自ら許してこなかったから。そうすると弱い自分というものが嘘になってくる。果たしてそうなるとネガティブな倉田紗南はどこへいけば良いのだろう。本当に辛い時、泣ける自分が居なくなっていたら、人は壊れてしまうのではないか? 本当は泣きたい時に誰だって泣いて良いのだ。そうして多くの人が又そういう彼女を知る必要はない。たった一人知っていてくれたら、それだけで必要にして十分なんだろうってこ とを、なんとなく泣きのエピソードの中に思った。絆っていうのはそうして生まれる、多くを要求せぬものなのだと。
 紗南は羽山に励まされて家に帰る。いつもと変わりの無い家庭がそこには待っている。玲君がいる。恥ずかしさの張本人。こどもらしく紗南は「ただいま」を言って彼の傍らに身を寄せる。夢を見せてくれた彼を恨んではいない。笑って、彼が自分の恋を取り戻すのを許してあげなくては……だけど!
 紗南の両膝にぼたぼたと涙が落ちるのだ。切ない涙。彼女は自分が泣いていることを理解できない。ああ、泣いているのはもう一人の本当に恋する彼女だから、理性でキャラクターを保っている仮面の紗南は自分の心が本当は泣いていることに気付かないのだ。「あたし大丈夫なのに、どうして泣いているの?」それはつまり、意識ではなく心が泣いている証拠にちがいない。彼女が彼女である前の、もっともっと深い部分の恋に恋していた内面的少女が泣いている。今まで無自覚であった愛情をせがむ欲求に初めて気付いた場面ではないだろうか。その時、紗南はそれが、本当の恋だったことを知るのである。そんな純粋な涙が流せるのは、彼女にとっても多分、一生に一度のこと。泣けるだけ泣いたら良いと思う。今回ばかり、EDはもう要らない。


11「父よ、あなたは父だった」

【失恋の痛手から立ち直った倉田紗南は、CM撮影に入れ込む。
 そんな折、あの羽山父が血を吐いてぶっ倒れた! 紗南は羽山の救いになれるのか?】
恋愛の方程式

 紗南は玲君への恋心をあきらめ、立ち直った。今迄と同じような朝、同じような喧騒のひととき、同じような玲君のベンツ出動……だけど、今日からお別れの「ほっぺにチュッ」が無い。恋人同士は返上してこれからはビジネスの関係なのだそうだが、当の玲君にとってはこれからなんだか寂しい日々が続きそうだ。恋人失格という部分にピンとひっ掛かってしまった。やっぱりね、努力して倉田紗南の恋人役をずっと演じてきたわけです。できれば本当の恋人のように振る舞っていたかった。だけど、失格してしまった。やや自虐的な台詞の裏に、紗南の恋人になりきれなかった残念な気持ちが読み取れると思うのだがどうだろう。彼は彼なりに実際、恋人のつもりでいたんじゃないのかな。ああ、でもロリコン玲君は見事に小六紗南から失格の烙印を押されてしまった。それはもう、彼女の態度からしてありありと。で、やっぱ寂しいわけだよね、男としては。今までなついていた女から距離をおいて冷たくされちゃうと。玲君の方が未練は深いわけ。
 恋に破れた紗南ちゃんはCM撮りに邁進。何を勘違いしてか紗南を一人前の女優に仕立てあげることに目覚めた玲君が7本ものCMをひきうけたばっかりに、撮影又撮影の毎日。見ている分には楽しくて仕方の無いぜんじろう・内山田君との共演なのだが、紗南の気持ちの中はどうだろう。夕陽の海岸を見つめながら、失恋の痛手をいやして涙ぐむ目薬のCMでの役作りは、彼女のいまの心境とやっぱりリンクしている。それなりに役にうちこむことで、身持ちの辛さをこらえようとしているかのように見える。CMにかける勢いとバイタリティーは、若さゆえ彼女ならではの生命力であるかのようだ。気持ちをコントロールできる天才子役タレントならではの自己回復の姿なのかもしれない。確かに多すぎるCMの仕事をいかにも楽しげに不満一つ言わずこなしていく様は、何か日常的なものをふっきっていこうとするような意識を垣間見見させる。彼女が、みんなに強い女と思わせる一端かもしれない。
 おまけに玲君の身のふりのことまでちゃーんと考えていたりするのだから、本当に恐れ入る。いつのまにやら麻子さんのマンションの部屋まで調べていて、仕事の帰りに彼のベンツを寄らせる心憎いまでの采配。扉を開けるとそこに、見慣れた女優の私生活が飛び込んでくる。麻子は、紗南が大人になるまでは、という玲の条件をのんで軽く10年位はつきあえないと覚悟していたようだが、どうもアッというまに大人になってしまった紗南ちゃんのおかげで、わずか数日にして玲の恋人役解禁となったのだ。「大人になったんですよー、奥さん!」と言われて拍子抜けしている表情が可愛い。仕事も男も、両方とも欲張った彼女は、結局それらを手に入れてしまった。それは強情なまでの麻子さんの芯の強さと、みかけによらぬ勇気が成し得たもの。紗南の口をついて出る実紗子ママの台詞があまりに的を得ていて、本人たちもぐうの音すら出ないではないか。結局、麻子さんの愛の強さと玲君の優しさの間に倉田紗南は割り込むことができなかった……それだけのことなのかもしれない。大人、こども、本気、ごっこというような区分は関係なくて、初めからこうなることが決まっていたってことなのか。
 紗南は出ていく。麻子は、「追いかけなくていいの? 彼女の方が多分いい女になるよ。」と玲に殊更問い掛ける。余裕、というよりは念を押しているのだろう。実際のところ僕らの視点から見ても、紗南は麻子以上にすごい大女優、すごい大人、すごい魅力の女になりそうな予感が彷彿としている。けだし玲君の選択は、いい女を選ぶという視点から見れば間違いであるのだろうが、ただ、彼が麻子に精神的に依存しつつそれを失い、その後紗南に出会うことでかろうじて恢復してきた事情がある限り、彼は彼女を選ぶべきなのだろう。結局冷静に見つめてみても玲にとっての最高の恋人は来海麻子なのだ。そのことを自身、いやという程知っているのではないだろうか。紗南との約束のサングラスをそっと置き、麻子と唇を重ねる玲を、誰が責められるものか。唯一その資格があるはずの小六の恋人がよしと言っているのだから、もうこの二人の世界を止められるものなどどこにもありはしない。全くうらやましいような二人だ。
 
羽山家の肖像

 玲君を麻子さんのマンションに置いてきた道すがら、紗南は街角で見慣れた人と出会う。彼は随分やつれた顔で足元もおぼつかない風に歩いている。良く見たらその人は羽山父! これにはさすがの紗南もたまげたばってん、仕事し過ぎだぞ、父ー! と威勢良くたしなめるのがいかにもオッケーてな感じだ。本当に、玲のことが片付いたら今度は羽山家と、忙しい紗南ちゃんはゆっくり失恋の痛手に浸っている暇すらない。はぁー、仕事が終わっても安息の日は来ないのだ。誰にでも頼られてしまうところが、親分肌ですよね、紗南っぺは。
 父が土産に買ってきた寿司を家族みんなでほうばる最中、突然咳き込んだかと思うと血を吐いてダイニングテーブルに突っ伏す。鮮血が父の顔の周りにじわっと広がる。これはまさに恐怖だ。仕事の為に肉体を酷使し限界を超えてしまった父は、すぐさま病院送りに。そして倉田紗南のところへ電話が入る。「おやじが、死ぬかもしれない……。」なぬー、さっき道でばったり会ったばかりじゃないのよ羽山父! 紗南は夜の町を自転車で駆ける。呼ばれたわけじゃないけど、電話がかかってきたし、羽山父のこと知ってるし、いいよね。さざめく心。ただならぬ雰囲気の中、ひた走る。
 羽山は何故紗南ちゃんに電話してきたのだろうか。それが例えば剛君とかじゃなくて紗南だったというのはどういうことなのだろうか。あのTVドラマ以来、羽山家の面々は随分変わった。紗南の名演にひかれて自分達の間違いに気付き、普通の家庭の雰囲気を取り戻すことができた。みんな揃ってみやげの寿司を食べられる程、恢復していたのだ。今、父が倒れてその図式が壊れてしまった時、まず第一に報告すべき相手は誰なのかと問えば、やはり倉田紗南の顔を思い浮かべるしかない。羽山はうろたえていた。何かを取り戻したくて、すがるように電話をした。父を、彼女がまた自分の元へ取り戻してくれるような気がして、紗南にダイヤルしたのだろう。自分のこと、ひいては身内のことを話したがらない羽山が真っ先に連絡しているところが、重要な変化だ。ただ一人彼女にだけは心を開きつつある少年の小さな気持ちがにじみ出てきている。それが真っ先に知らせるべき親戚のおばさんでも、はたまた剛君でもなく倉田紗南であったということが、彼にとってかけがえのない人間になっている証拠だろう。あのひねくれ坊主が、一心に紗南へ頼ろうとしているのだ。そいつは父が倒れたことを真っ 先に母へ知らせようとするこどもの心理だったかもしれない。病院の廊下で取り乱す夏美姉に、「しっかりしろよ、いつもうるさい位、元気なくせに。」と投げ捨てるように言って冷静さを失わない羽山少年だが、紗南ちゃんが駆け付けた時、張り詰めた意識が一気に崩れてすがるような目を向けるのがなんとも言えない。クラスメートの少女の肩にすがりつき、「おやじが死んだらどうしよう……」と、内心の不安を吐露する素直さは、もはやこどもそのもの。いつものひねくれたつっぱりは微塵も感じられない。ただ一人、紗南の前でだけは彼もこんな自分を表現することができるようになったということだ。泣きたい時にすがれる相手がようやくできたこと、こんなことは羽山自身にとっても生まれて初めてのことだろう。羽山が自分の弱さを他人に見せるシーンには、なぜかじーんとくる。心の痛みがそうすることによっていやされることを表す、重要な場面だ。
 こどちゃは前作「りりか」と同じく、人の心の「癒し」が全面的なテーマになったストーリーだと僕は思う。かつて玲君は、幼い紗南ちゃんと出会ったことで、麻子さんに捨てられ不幸続きで屈折した心を癒されて自分を取り戻すことができた。今、幼い羽山も、紗南にすがりつき精神的に頼ることで、自分の心を支えようとしている。なんなれば彼の壊れかかっていた家庭が、彼女の主張したドラマの台詞によって根本的な傷の部分を癒されたからに他ならない。しかして次なる問題は、倉田紗南その人の心の癒しである。不思議なことに彼女は生来の明るさで周りにいるあらゆる人々の心を自然な形で癒していけるのだが、当の本人がもし傷を負った時、誰がそれを癒してくれるのだろう。誰が泣かせてくれるのだろうか。そうしたテーマ的な流れがこどちゃには随時通底しているように思われる。人を癒すものは同じ人でしかない。そしてその人とは、かけがえのない絆で結ばれていなくては全幅の信頼をおいて自分をゆだねることなどできない。そういう意味で、癒し癒される者としての人的つながりのようなもので作品社会は広がっていっているのではなかろうか。今、もっとも扱いにくく自己表現 の下手な奴に思われてきた自閉的少年が、その心を開いてヒロインに抱きすがる光景はじんと心の底を熱くさせるが、多分こういった場面にこそもっとも重要なこどちゃのテーマ性がこめられているように思える。それと同時に、こんな時やっぱりどうしていいかわからない、普段いっぱしの口をきいていてもいざとなったら窮してしまう自分達の「こども」性についての自覚が、まだ未分化な彼女達の心のありようを鮮烈に表記している。癒しを求める者がすがりついてきた時、絶対的な安心感と愛情でもって応えてやれるのが彼女のイメージする大人の姿なのだとしたら、確かに今はまだ、大人への入り口に差し掛かったこどもの戸惑いを体現しているものなのかもしれない。一生こどものままで人生を終える人もいるけれど、彼女達は確実に大人を目指して支え合い生きていこうと胎動を始めている。そうせねば生きられない程、傷ついているこども達であるからだ。


12「今度は紗南がロンリーウルフ」

【恋愛問題に決着をつけてCM撮りに打ち込む紗南。あまりの疲れで爆眠してしまい、
 ヒサエちゃんの誕生日をすっぽかし! どうするどうなる? 女の友情。】

女優とクラスメート

 紗南ちゃん脱皮の季節。古い皮を脱ぎ捨て新しい世界へ羽ばたく為、そして女優として一皮も二皮もめくれる為に、マネージャーの玲君は次から次へ、取れるだけ仕事を取ってくる。こないだも仕事の取り過ぎでマネージャー失格! と警告されていたのに、懲りずに少女紗南を追い立てる玲。その本心はといえば、紗南の恋人役に失格した自分の存在を今一度確立する為に有能マネーージャーぶりを発揮したいというところであろう。けれども紗南ちゃんはまだ小学生。仕事を持ってバリバリと芸能活動するよりも、もっと大切にしなくてはいけないものがたくさんあるのではなかろうか。友達とお話したり遊んだり笑ったり、年齢相応の児童生活を送ること、教室でのありふれた日常を大切にすることが必要だ。子役タレントという存在が引き受けるべき矛盾というものを、紗南自身その体に背負っている。それはこどもをただこどもとして認めるのではない、大人たちのショービジネスの世界に足を突っ込んでしまったものの宿命である。
 何しろCM収録10本という驚異的なハードスケジュールに加えて、レギュラーの「こどものおもちゃ」出演もあるのだからさすがの紗南ちゃんもへばってくる。特にCMというフィルムの性格上、何度も何度もりテークが繰り返されるので役者にとっての負担もとどまるところを知らない。普通の子だったらとっくにネをあげている状況だろう。しかし、紗南は負けない。辛くても「笑わなきゃ」と自身にいい聞きかせて、明るい笑顔を満面に湛えながらカメラに挑む。その強さ、というか、プロ意識のようなものは、彼女なりやはり天性のものなのかもしれない。例えば家に帰って、疲れてて落ち込みそうになった時にも、彼女は例のキーボードを取り出して「歌う紗南ちゃん」でハイテンションへ自分を導く。これは彼女なり、仕事に臨む自分作りの一環なのだ。じめじめと暗い顔をしていてはカメラの前に立てないから、ぱぁーっと景気づけした勢いで本番へ向かっているのだ。この不屈の精神力は並のこどもの持てるパワーを軽く三倍は凌駕しているが、ひとえにそうしなくてはという少女のプロ意識と天から授かったメンタルコントロールの技術の賜物だ。知らず知らず、紗南は玲君の望む通り演 技者としての水準を上げつつある。ただし、小学生の自分というものを置き去りにしていってしまう危険を常に内包しながら。
 ヒサエちゃんの誕生日すっぽかし事件というのは、そうした紗南ちゃんの特殊な児童としての生き方の難しさを如実に表したエピソードだ。倉田紗南とてスーパーマンではないのである。丸一日海岸で叫んだり金チャン走りをしていては、肉体的な限界がやってくる。UPと同時に眠りこけて丸12時間以上爆睡してしまうことだってありそうなものだ。しかし、そういった事情をクラスメート達は知らないから、友達として誕生日のお祝いに駆け付けると約束したものは、当然約束である。電話一本よこさずにすっぽかしというのでは、信頼関係にひびが入ってしまっても仕方の無い事態だったりするのだ。不可抗力とはいえ、紗南が来てくれるのをずっと楽しみに待っていたヒサエちゃんやその家族や仲間達にしてみれば、許しがたい友情の裏切りに見えたとしても致し方ない。人と人としてのかかわり合いというのは難しいものなのだ。彼女が怒って口をきいてくれないのも、内心紗南のことが好きでしょうがないからだということは留意しておかなければいけないだろう。人気者たればこそ、些細なことでみんなの気持ちを拗ねさせる原因を作ってしまうこともあるわけで、クラスにおける紗南という 少女の役割・重要性のようなものを彷彿とさせる。このメンバーは所詮、紗南の存在性を求心力として成立するグループなのだ。特に小学生女子辺りの年頃というと、そういう他者依存的傾向性が強いのではなかろうか。まぎれもなく彼女が好かれているからこそ、仲間外れにされるという矛盾が起こるのだ。彼女たちは内心では紗南の芸能人としての特殊性にあこがれや好奇心を抱いているし、特別な存在として認めているはずだ。但しそれは自分達の約束をないがしろにすることまで許容していない。その辺りが難しくて微妙なところ。先生達は、仕事を持っているという事情をある程度理解してくれても、クラスメートは一概にそう理解してくれるものではなく、扱いの違いをずるいと感じてしまうところ等も、かきこみが細かい。仲間意識というのはどこかで同じ立場という気持ちを要求するものだ。ある程度横並びな状態をどうしても要求してしまうものなのだろう。

羽山・大木コンビ怒る

 こうした一連の紗南ちゃん仲間外し事件に対し、ロンリーウルフを十八番できめる羽山は、怒りをもって見つめている。自分は仲間意識なんてものを必要とせず勝手に生きている存在だから、クラスメートに敬遠されても問題はない。しかし紗南のような、人気も実力もあるものがロンリーウルフにされている状態というのは我慢がならない、というのだ。この辺が、男羽山としての女紗南に対する思い込みの表れと取っても良いだろう。と同時に、彼が彼女に要求するものというのもなんとなく見え隠れしているような気がする。羽山にとって、倉田というのは人間として輝いている存在だし、人望も篤くて友達も多い、自分とは正反対のポジティブなキャラクターでなければいけないのだ。だから彼にとってのそういうイメージである彼女がクラスメートに疎外されている状態というのは、ほとんど許しがたい事態であるし、困った彼女の顔を見ているのも嫌なのだろう。男子便所で、例によってあの悪たれの五味達が倉田の仲間はずしを面白がっていて、これを聞きつけた羽山は思わず昔の野生の目を取り戻して大暴れ。きゃつらをぶちのめし、便器の中へ体ごと押し込んでぐいぐい足蹴にする暴力性は 、悲しいかな人の「かわらなさ」をじんわりと伝える。そこで彼が暴れてどうなるものでもないのに。そうすることでしか自分の怒りを相手に伝えることができないこどもなのだ。更に事態がもっと深刻なのは剛君の件だ。あの温厚な少年が今回も又、ホース握って羽山と一緒に暴れまくっている。一度や二度は笑い話になったとしても、こうも続いて切れっぱなしになっていては剛少年の精神状態の方が心配になってきてしまうのだ。果たして彼がひょんなことから自分をコントロールできない状態に陥ってしまう人格性は、何処に原因があるのだろうか。はたまた羽山と紗南が最近接近しつつあることで、相対的に存在が薄くなってしまっている剛君の気持ちというものをないがしろにするわけにはゆくまい。「私たちはこどもだから、助け合って生きている。」とする紗南の言葉は、当然仲間である剛君にもあてはまる。問題は今後、学校に来なくなってしまった大木剛少年の方へシフトしてゆくわけだが、つくづくこどちゃは内容といいテーマといいこどもの社会的問題性を重い視点で描き出す上に、ストーリーの移り変わりも劇的に早いドラマだ。テンポについてゆく為には二・三回巻き戻して見ないと 私なぞは駄目なんだが、今時の人々は理解がこんなに早いのでしょうか? 時代のスピードに思わず取り残されそう………


13「僕の名前が変わります」

【ハゲおやじの暴走乱舞に巻き込まれる紗南と羽山。
 両親の離婚で住所も姓も変わった剛君に、届く亜矢ちゃん絶叫告白!】

剛君家の家庭の事情

 学校に剛君が来ていない。どうやら剛君の両親が離婚したらしい……この情報を受け、紗南と羽山は学校を飛び出して剛君の家へ向かう。普段おとなしくて愛想のいい何の問題点も感じさせない少年がこんな家庭問題を抱えていたなんて想像だにできようか。彼は親友たちにも何一つそんな話をほのめかしもしなかった。誰もが、あおのちゃんやお母さんと仲良く暮らしているものと信じていた。唯一つ、若干のマザコン的傾向が見受けられる点を除いては。今回、日頃スポットが当たらないどころか、最近ドンドン存在が稀薄になりつつあった大木剛君の家庭の事情が主題となる。羽山に負けない程家庭環境に問題を抱えていたことが明るみに出た時、何故彼は誰にも(羽山にさえ!)そのことを話そうとせず、救いの手を求めなかったのか不思議がつのるのだ。が、剛の性格を考えてみれば無理もないことかもしれない。彼の自分から波風を立てたり話題をふったりすることのできないキャラクター性は、普段の生活態度を見ているとあまりにも明瞭だからだ。いつもにこにこしながら淡々と立ち回る様子に誰もがすっかり安心しきっていて、何も問題のない人間に思われている。しかし現実には、悩みを 抱えている点で他のどの子とも同じだということ。ふと気付けばあの羽山よりも自分のことは語らず、いつもすずしげなポーカーフェイスで過ごしていた謎の人物というわけだ。本心を明らかにしない、することができない、心を押しつぶして生きているこどもが又一人明るみに出る。一体こどちゃには健全なキャラクターというものが出て来ないのか? とすら思ってしまうのは、きっと僕だけではあるまい。
 大木家へ駆け付けてみると、そこは禿げた親父が一人ぽつねんと暮らすだけの屋敷になっていた。そして他の家族が何処へ引っ越したのかも知らないと嘯く。慰謝料5千万支払って法的に離婚がもう成立しているのだから、あとはもう知らん、もう関係ないんだとのうのう語る親父の態度に、羽山は思わず喧嘩腰になる。てめー、それでも親父か!? と、怒りのおたけびを無遠慮にたたきつけてしまう。他人の親父に……。羽山にしてみれば、親父のことでエキサイトするのも無理も無いわけで、彼自身父親とのディスコミュニケーションによってずいぶん長い間思い悩んできた経験者だ。きちんと家庭を支えていくことができない父性というものに対して、敵愾心のようなものが生じているのだ。だから大木父を許せない。剛の心の痛みをその時、彼は始めてわかった気がしたのだろう。しかし剛父はまぎれもない、暴走剛君の父だった。一度キレたらもう止まらず、こども相手にタンスを投げ付け暴力に訴えて家の中でバトルを始めてしまう。この描写によって、何故大木家が崩壊したのか、剛達家族は出ていかなければならなかったのかという事情が判然とするところは、よく出来ていると思った。言葉 で説明せずに目の前で暴れている親父を描くことで、体感的に納得をみる。そしてその血筋はまぎれもなく剛自身の心と体に引き継がれているものだということも。剛君が父のことを悪く言ったことは一度もなかったとさりげなく台詞が入ったりするし、大暴れした後の寂しそうな父の姿も一瞬挿入されているのだが、これらは厳然たる精神的病で彼がそうなってしまうことを如実に示すものだ。父は病気なのである。理性で感情的に暴走する自分を止められない、てんかん症状なのだ。そしてやむなく離婚が決まったのも、そうした彼の暴行から家族を隔離する為の措置だった。心情的に、彼は家族から嫌われているわけでも憎まれているわけでもなく、どうしようもない事情が家族を分断してしまったということだろう。あおのちゃんのふとした台詞が輝いている。「お父さん、いつ来るの?」と、幼い少女はお兄ちゃんに尋ねている。父も、彼女に対して暴力を振るうということは無かったらしい。あおのちゃんはお父さんのことを純粋に慕っているし、剛君も自分がコピーであるだけに憎めるはずがない。きっと大好きなのだ。大好きであるけれど、一緒には居られない、別れなければならない悲しい事情 というものが、この世には存在するのである。その哀しさ、切なさ、もどかしさ。みんなが寂しく思ったとしても、そうせざるを得ない事情というものを汲んであげて欲しい。大木家の愛は、真っ赤なりんごに喩して語られている。あおのちゃんが「りんごりんご、うー!」と言ってはしゃぐのも、大木父がスーパーで買ったばかりのりんごを道端で会った息子に持たせるのも、この家族の象徴的な愛情を物語ったものだ。りんごのすっぱさは、離れていても愛情の絆を保ち続ける父と子のやるせない、心の味なのである。法律上家族でなくなったとしても、親子の血は決して消えない。真っ赤な林檎の色を見ていると、そんなことをふと考えてしまう。
 結局、剛君達家族は大木の家を出て佐々木さん一家として近所のマンションに移っていた。まるで何ごとでもないかのように涼しい顔をしながら引っ越しの後片付けをする剛君。大丈夫そうな姿。紗南も羽山も、その明るい様子につられてわきあいあいとしてしまうわけなのだが、その何気なさやイベント感覚のわくわく気分こそが問題なのである。結局剛君も人の子。平気な顔をしていても心は傷ついているし、深く泣いている。ただ、そういった気持ちを出してしまって母や妹を悲しい気分にさせるのが嫌で、じっとこらえてしっかりした長男を演じようとしていたのだ。そのあたり、紗南達との別れ際の、うつむいたら涙がこぼれて止まらなくなってしまう剛君の台詞の言い回しにこめられた感情が圧巻だ。ふと思うのは、泣き方が、玲君に失恋した時の紗南のそれとそっくりなのだ。泣かないように、泣いちゃダメだと思っている自分と、これに反してどういうわけか目から水滴がこぼれてしまう自分。この分裂性が剛君のケースの時も描写されている。そういうのがこどちゃ的な、現代的「こども観」であるというのは言うまでもなかろう。こども達はストレートに泣くことを許容されていないのだ 。泣くことをこらえようとして、なおかつ涙が溢れ出る。泣いている自分を不思議に思えてしまうような、矛盾に引き裂かれた精神状態を社会病理としてとらえているから、こういう表現が多く挿入されるのだろう。彼らは大人の顔を持たされた気の毒な子供たちなのである。こうした泣き方が不思議でなく思わせる状況こそが問題なのだと気付く時、訴えかけようとしているテーマの重要性もわかるのではなかろうか。大人の顔を要求されたこどもたちはだから、泣きたい時に泣いていい場所、泣いていい相手を懸命に模索しているとも言える。社会の中におもいっきり泣ける場所を持たないからこそ、こども同士がお互いに扶けあい、世の中から押しつけられてくる過酷な荒波を自分達の力で乗り越えようとする姿を描ききろうとしているのだ。剛君の涙に、背伸びをしようとしてしきれないこどもの心というものを感じる。お父さんのことを大好きな彼が紗南達の前でだけ静かにこぼす、こどもの純真な涙であった。

亜矢ちゃん絶叫告白

 剛君が思わず涙をこぼしてしまった後、その様子に胸をうたれた紗南が「私にできることなら何でも言ってね。」と元気づける。で、この辺からこどちゃテンポが復活するのがなかなか鋭い。シリアスを限定的に区切って、瞬時にギャグへ転嫁するこのオリジナルな表現形態は、テーマの深刻さを印象的に打ち出し考えさせながら、なおかつそれを引きずらせないエンターティメントとしての姿勢を維持し続ける。いかにも現代的スタイルであり、見せ方としての絶妙なバランス感覚を持っていると思う。「じゃあ、お嫁に来て。」と言って顔を赤らめる剛君、きみきみ何処からそういう冗談が出てくるかねー? という感じで、羽山にぶん殴られるのが痛快ですらある。紗南も紗南で、私むことり派だからお嫁にはいけないけど何でも相談してね、とよくわからない返事をしたりしてるし、真剣さの範囲が不明なまま剛君の涙もいつの間にやら何処かへふっとんでいるのだ。いや、それが良いのかもしれない。この明るさが救いになるなら、笑ってていいのだと解釈できるのかも。そう言えば、公園で剛君のことを話しているシリアスの最中に羽山は、目の前にほうり出されている紗南ちゃんの無防備な胸を むにっと触っていた。おお〜、紗南も紗南で「もー完全にお婿取れない〜……いや、まだもまれてないからセーフか!?」などと、どの辺りがセーフなのかわからんことを絶叫している。(どういうアニメなんだ、これ?)羽山が剛君に誕生日の祝いだと言ってあげた昭和59年の5円玉(公園で拾ったやつ)が出て来る辺りで、ますます自分はわからなくなってきた。昭和59年……僕らの生まれた年だ! と来て剛君のお誕生日に繋げる辺りはなんともゴーイングマイウェイな話の流れだと思う。しかしかえってその脈絡のなさが気持ち良く感じられてしまうのはなぜなんだろう。これが、はまってしまったこどちゃテイストというものなのであろうか。剛君への心配から、亜矢ちゃんの告白へ繋げてしまうストーリーもすごい。全てのエピソードはリンクしているのだ。何一つ無意味なものがここには存在しない気がする。
 そう言えばすっかり忘れていたことだが、剛君は紗南ちゃんに惚れていた。しかしその原因がなんと去年のバレンタインデーに起こった紗南の通り魔チョコ事件に起因していたとは! 剛君の恋心はもっと精神的なプラトニック系のものであるように感じていた私は甘かった。彼は、とりあえず物で釣られて女の子を好きになってしまう即物的生命体だったのである。なんとなく彼も又羽山と同じに、相手をしてくれる人を好きになるタイプと言えるのかもしれない。それは潜在的孤独感の裏返しとも取れるが、この際いそういったしんき臭い議論は棚上げにしておこう。とにもかくにも前々から張りに張りまくっていた(ような気がする)亜矢ちゃんの件が今、炸裂する時がやってきたのだ。五年生の時の剛君を「あたし知ってるー、これ止めるの羽山君の役目でしょ。」と言い、「亜矢ちゃんクラスに好きな男子いるのー? えー誰ー?」と社会科見学でネタふり、「剛君学校に来てないの。」と心配そうな顔をしていた……亜矢ちゃんの秘められた真実(全然秘めてないか)が、つひに発覚する時がやってきた! 万歳、捨てる神あれば拾う神あり。かろうじて剛君の存在意義はついにこどちゃの中で不 動の地位を得たのである。大木剛が佐々木剛になり、クラスでの報告も終えて毅然としているところに、男子どもの野次が飛ぶ。「良かったじゃないか、マザコン剛。これでお母さんの側にいられるぞ!」心ないその台詞に激怒し、彼等の背後から仕返しに迫る倉田と羽山。だがしかし、この緊張を破ったのは女子の間でももっとも温厚と思われていた杉田亜矢ちゃんであった。「ちがうもーん! 剛君はマザコンなんかじゃないもん。ただお母さん思いなだけだもん!!」……ああー何たることか。彼女はずっと前から剛君のことを気にかけ、作文の発表等で彼の家族的な心情を追いかけ続けてきたのだ。今や、剛少年の一番の理解者が亜矢ちゃんであったことが判明する。とどめは「私、剛君のこと好きだもーん!」で、誰もあんた、そこまで聞いちゃいないって……と、誰かがつっこめばいいのに誰もつっこまないから不肖この私が。どんかん紗南ちゃんもついに亜矢ちゃんのラブラブ状態を知って、納得。羽山はすかさずライバル蹴落としの為に二人をたきつける手に出る。この辺も、あまりの動きの素早さに、キャラクター違うんじゃないの? とつっこみたいが、少年も次第に倉田紗南の悪い影響を受け つつあるのだろうか。以後、だんだんと羽山の役どころもコメディタッチな表現が増えていくのだ。是非も無し。まぁ、とりもなおさず剛君と亜矢ちゃん、勝手に幸せになってね! というところか。


14「約束の夏・その前編」

【林間学校に向けてひた走るバス、おどる生徒の心、とどろく紗南の絶叫。
 安藤先生も負けずにリンボーダンスで、気分はもうポリネシアン……】

かげりゆく高揚
 
 一つ、明るみに出たことがある。前から確かにそういう傾向はあった。傾向ははあったが、もしやと思っていた。しかしそうした一つの予感はこのエピソードを通じて確証へと変わる。倉田紗南というキャラクターは、落ち込んだり辛かったり不安を抱いたりした時程、普通のこどもとは逆に大騒ぎおちゃらけのハイテンションが急激に盛り上がる人なのだということ。従って紗南の様子がいつもより明るければ明るい程、内面的な部分に凝視しなくてはいけないということだ。紗南はいつも何かを隠している。秘めたる不安を悟られない為に、異様に明るい。本当に病んでいるのは一体誰なのか、本当に苦しんでいるのは一体誰なのか、あらためてよく考え直してみなければならない。今迄、いろいろな人達の心の傷に触れ、そうした運命の病根を倉田紗南は恢復させてきた。あるいは立ち会って来たと思う。だがしかし、人を癒す持ち前の明るさと思われた彼女の生まれつきのタレント性が、実は何かを多い隠す為のイミテーションなのだとしたらどうだろう。これ程アイロニカルなシチュエーションというのは考えられない。林間学校が始まり、普段の三倍のテンションの高さで壮絶なギャグを繰り広げ るメチャメチャでドタバタな紗南の感情性の裏に、沈鬱な表情をして運命の日に向け寂寞たる不安を抱いている悲劇性が存在している。彼女が発散する異様なカラ元気は、きたるべき不安と涙の黙示録なのだ。ハイになればなるほど、沈みゆく実態が大きくなる。いや、沈下してゆく内向的意識に飲み込まれない為に、紗南の防御本能がアドレナリンの分泌に向かっているのだろうか。いずれにせよ向精神状態にあればある程、危機の世兆は深まってくる。これが一気に崩れる時が怖いし、そうなる時はもう目前まで来ている気がするのだ。
 鋭いことに羽山は、倉田紗南のそんな微妙な表情の陰りにいち早く気付いていた。バスの中、ふと垣間見せた内向的な少女の素顔。約束の時がやってきて、マスコミがドンと押し寄せ、今の生活が変わってしまうことへの漠たる不安。それを思う時、ふと少女の意識は現実世界から遠のく。というよりは紗南のこのシリアスな予感性こそが一番洞察せねばならない現実性なのだとしたら、あの瞬間の彼女にポラロイドカメラを向けてシャッターを切った羽山の行動はあまりにも的を得ていた。やや時間をかけて印画紙上に固着された紗南の憂鬱な表情が浮かび上がってくる。これとマルチで重なる、バスの座席に足をかけてエキサイティングに歌う少女の姿。この対比がすごい。羽山はその時この不自然さに何を思ったのか。そして僕らはどんなことを受け止めればいいのだろうか。バスはしばしの解放の時を目指して大地岳に向けひた走る。解放? ……そいつは運命の時に向けて確実に時間を進めゆく残酷な秒読みのスケジュールではなかったか。この旅行が終わった時が、ママの作業の終わる時。そして、紗南の人生を左右する仕組まれた事件の始まり。プログラムが進行するにつれ、カウントダウンは 確実に行われていく。不安はこれに比して意識の中で高揚する。

運命の夏

 「そろそろ。約束を果たす時が来た。」実紗子ママのシリアスな語りで、それは始まる。紗南は表情を変えず、いや変えないように努力しながらその言葉を受け止めている。条件は、ママが有名な小説家になること。そして紗南が普通のこどもより少しだけ有名になっておくこと。今、実紗子が作家として身を立て、そして紗南がタレント子役として芸能界に身を置いている特殊性がどちらもある目的を念頭においた計画の一環なのだとしたら、それ程まで彼女たちの人生を左右する事実とはいったい何なのであろうか。なぜ今、それが決行されようとしているのだろうか。おそらくは玲君も知らない、この親子の隠された事情がマスコミを通じて明るみに出ようとしているのだ。紗南はモノローグする。ママのエッセイが出版されたら、マスコミの人達に大騒ぎが起こる。そうなったら、今のママとの楽しい生活がだめになってしまう……と。彼女をそうした形で追い込んでしまうような実紗子さんの計画が判然とつかめないうちは、何故そうすることが必要なのかわからない。今のまま生活を守ってゆくだけではダメなのだろうか。どうして意図的に混乱を起こそうとしているのかがのみこめない。しかし それは、紗南の家族にまつわる大変重要な事実とつながっているのだ。羽山に、お前の父親は? と聞かれた時、紗南は思わず口ごもらざるを得なかった。そして、いずれわかることだから、とごまかしながら語った。そうした引っかかりがつもりにつもって羽山の疑惑を進化させていく過程は、我々の心とシンクロする。
 安藤先生と生徒達全員がぜんじろうと共にリンボーダンスにうち興じている裏で、蛍の光に誘われて崖から転落した紗南。それを追っかけて同じく落っこちてしまった羽山。二人きりの場所で、今までにない核心を突いた言葉が出る。「お前のその明るさって、実は全部演技なんじゃないかって、思う時がある。」と羽山。演技……? 紗南はこどもの頃から名演技者で舞台に上っていた。その演技スタイルは自然なキャラクターとして誰にでも受け入れられていた。演技を感じさせないネイティブな演技性、それが紗南の子役としての最大の魅力であったが、まさか日常生活においても全てが演技によって作られた人間性を露出するものだったとしたら……いやしかし、そんなことが人には可能なのだろうか? 紗南自身は、そういうところが全然無いとは思わないけど、でも誰だって少しはそういうところあるんじゃないかなと、答えてみせる。ああ、確かに。誰もが長い年月をかけて自分というものを意識的に流出し、規定している部分はある。しかし紗南の場合は常人の行っている自己への人格的振り付けの範囲を大幅に超え出た、極端な感受性との乖離が見られる。そこが問題なのだ。泣きたい時に 笑い続ける「笑い女」を日常の芝居としている少女は、一体どんなシチュエーションで涙を流して心の痛みを癒せばいいのだろうか。そうした状態を恐れ、泣くことを本能的に圧殺しているからこそ、問題になってくるのだ。現に今、羽山の隣に座って自分を取り巻く仕組まれた不安のことをとつとつと語り始めるだけで、紗南の両の目には涙が溢れ出てしまう。この意外性。しかるにそれは、あの年頃の少女にしてみれば不思議でも何でもないことではなかったか。彼女はいつだって心の底で泣いていた。不安におびえながら生きて来た。今という時間が楽しければ楽しい程、それが奪われる事態を恐れずにはいられなかった。そしてその不安はいつか確実に現実のものとなることを約束させられていた。母に、例のエッセイをまとめて発表すると聞かされた時、少女の心にざわめいた不安の嵐のことを思う。便所スリッパ履いて家中を歌いながら駆け回る程、彼女は動揺していたのだ。そういう仕方で自分の心の不安をごまかし、笑い女であり続けてきた、十数年の人生の倉田紗南がいる。そうした深刻な話なのである。
 運命の夏が訪れようとしている。紗南は、崩れそうな自分を笑顔で支えながら不安に耐えようとしている。そんな時、隣にいて本当の気持ちを聞いてくれる羽山は、かけがえのないマブダチということになるだろう。彼と彼女が男と女なら、それ以上への変化も期待して良いのかもしれない。喚声高らかに、リンボーダンスの夜は更ける……。


15「約束の夏・その続き」

【泣きたくなったら泣けるところがあるんだ! 羽山の言葉に救われ紗南は日常へ帰っていく。
 そこへ現れた青い目の少年は「君の秘密を知っているよ」と、すれ違いざま囁いた……】

偽りの母と子

 意外なことに、紗南ちゃんが最も恐れていることとは、「ママが私のことを嫌っているかもしれない。」という突拍子のない不安だった。実紗子ママが紗南のことを嫌っている? そんなことありっこないと普通の感覚では思うはずだが、紗南の受け止め方は違っていた。ママのエッセイが発表されたら、世間はきっと大騒ぎになる。そうしたら今の楽しい生活は壊れてしまうかもしれない。けれど実紗子ママは「約束」を毅然と遂行しようとしているのだ。紗南にしてみればそんな約束よりも、今の実紗子ママとの日常の方を大切にしたいという気持ちが先行するのは想像に難くないわけで、あえてこれを破壊してまでエッセイを発表しようとしている母親に対して、どうしてそうせなばならないのかという疑問が生じても無理はない。ひょっとしたらママは私のことを嫌っていて遠ざけたいのではと疑う余地も生じるわけだ。約束を果たしましょうとママに打ち明けられ、表面上笑みを崩さない平然とした態度を示していても、テーブルの下で両手をぐっと握り締めた少女の心が切ない。紗南は日常の中でいつも本心を語っているわけではないのだ。何処かで本当の自分を偽って知らぬ間に演技をしている 。ママにさえも。誰にも言えない心の秘密を抱えた娘なのだということ。そして潜在的に抱き続ける心の不安と常に戦っている。衝撃的なのは、実紗子ママにさえ彼女は自分の本当の気持ちを話したり母親の気持ちを確かめたりできない立場にあるということだろう。この遠慮はどこから来るのか、どうして一番の相談相手である筈の実紗子さんが、かくも娘にとっての他人であり続けるのか、今大きく問われようとしている。確かに、紗南がどうして、今更自分が母親に嫌われているかもしれないだと言って泣くのか釈然としないかもしれないが、そこには重大な秘密が隠されている。紗南にとっての母親がかりそめのものなのだとしたら、実紗子との間におかなければならない遠慮という名の心の壁の理由も導出されてくる。今の紗南には母親の本心というものが見えない。又、母もそれを教えようとしない。むしろ能面的な作家の表情で隠そうとしている。紗南がほとんど脳天気なまでの明るさを日常的に発揮するのは明白にこの母親のふざけた性格の影響だが、泣きたい時にも本心を偽ってますますのおちゃらけでごまかそうとする様子が、それまでも実紗子さんの自分の弱さをカモフラージュしようとす るスタイルと同一なのだとしたら……そういう母と娘の間に溝が存在するのは皮肉なものだ。彼女たちにはまだお互い隠している本当に大事な言葉が存在するはずで、だとしたら今の楽しい生活もかりそのめのものでしかないし、12年間の偽りであったと表現しても良かろう。約束の夏は、そんな二人に課せられた心の試練であると同時に、本当の信頼の目覚めの時であるに違いない。

泣きたくなったら

 崖の下に落っこちて羽山と二人きりになった時、紗南は目にいっぱい涙を浮かべながら自分の真実の気持ちを語ってみせる。まもなく世間は大騒ぎとなること、今の生活が壊れてしまうかもしれないこと、ママが本当は自分のことを嫌っていたらどうしようという不安。これらを羽山だけに打ち明ける態度は、こどもそのものだ。そして親にさえ言えないことを彼にだけは隠さず言えたことが、紗南にとっての最大の救いなのだ。12年間ためてきた何かから、彼女は多分この時解放されている。そして約束の夏が訪れることへの不安を、のりこえようとしている。誰かに聞いて欲しかったのだ。そして何も心配するなと言って欲しかったのだ。自分に自信が持てなくなった時、すがる相手を必要としていたのだろう。とてもとても長い間。決め手は、「自分のこどもを嫌いな母親なんていない」と、羽山が再確認してくれたことであり、「それなりに俺はお前に感謝している。だから困っている時には力になってやりたい。」とたどたどしく気持ちを述べたことであり、そして「泣きたくなったら俺ンところに来い。」という力強い台詞にある。羽山がそんな気障な台詞を吐いたことに対し、紗南は泣き虫を 一転ゲラゲラ笑いながらおちょくり攻撃をかけるんだが、これはいつもの彼女の悪い癖というやつだろう。シリアスが続けられない性格に罪はない。なんのかの、紗南にはこの一言がずんと胸に浸透して感激し、最大の安らぎを得られたのだ。「ありがとう、羽山。」という返事に嘘はないだろう。生まれて初めて、本当に泣きたくなった時に心から泣ける場所を得られた少女は、たとえ行く末に辛い衝撃の日が待っているのかもしれないと思っても、勇気を持って日常へ歩を踏み出すことができるようになった。少年のたったひとことが、彼女の気持ちを根底から救ったのである。そして繰り返すが、この些細な言葉に二人の絆が刻み込まれているのだということ。泣ける場所があるという気持ちが、全てを乗り越える癒しにつながることを、この時紗南は身をもって体験したに違いない。それは、これまで周囲の人々を愛らしさと純真さで癒し続けてきた彼女自身が初めて他人に、癒された場面であったのだと僕は思うのだ。

ヒール絆の少年

 紗南は復活した。「泣きたくなったら頼むぜ羽山ぁー!」と剛毅に構える紗南の強力な態度に、以心伝心ビクッとなる羽山だが、そういう形で二人の気持ちが接近しつつあることだけは確かなようだ。このまま二人は距離をつめられるのだろうか? 障害はもう何もないのであろうか? と、そこへ降ってわいたがごとく紗南と同じ年である超美形子役タレント加村直澄とのCM共演の話が飛び込んでくるのだ。クラスメートの女子の誰もが知っている、知らないのは当の紗南だけというくらい今最も話題性ある美少年が、このタイミングで紗南に絡んでくるのだからまさに運命のいたずら。羽山にしてみれば暗闇からわいたゴーストである。あいも変わらずお節介でくどい性格の無遠慮な剛君による罪のない言葉に羽山のイライラは倍増、消毒層に少年を頭まで沈めたりシャワーの鉄管を素足で蹴飛ばしてみたり。彼はもう紗南のことが完全に好きになってしまったし、独占欲も人一倍強いというところだろう。そんなやつが芸能界に身を置く彼女を好きになったこと事態不幸の始まりという気もするが、実際蓋を開けてみると加村少年という子は噂以上の美形であるし、紗南と並べるとお人形さんのように しっくり来るパートナー役なのだから仕方がない。何よりもヒールバンのCM初収録が、たった一発でOK出てしまうところが驚異なのだ。それ程この二人は役者として息が合ってしまうのである。今日、初めて出会ったのにもかかわらずこれ程気持ちが役の上でシンクロしあえるというのは、意識上の何かが通じ合っているとしか考えられない。というか、そもそも一体それは二人の初めての出会いなのだろうか? という疑問を投げ掛けてくる。極めつけは「君の秘密を知っているよ」と擦れ違いざま、挑戦的にささやく謎の言葉だ。紗南の過去との接触が彼には存在するということ。それは何を意味するのだろう。そしてどういう運命が待ち受けるのだろう。
 倉田紗南一世一代の重大時に彼というインターセプターが現れたことがドラマをいやが上にも盛り上げる。加村直澄も又、紗南の気付かない秘密裏に接触を「約束された」少年なのかもしれない。望むと望まざるとにかかわらず、過去にまつわる事象が明るみに出るにつれ、紗南は本当に自覚しなければならない現実へと引きずり出されてゆくのだ。不安は全てリアルな体験へとつながってゆく。彼女が本当の自分の姿に対峙する為の舞台は次々整ってゆくようだ。


16「ドキドキふたつあったとさ」

【夏休み最終日、劇団こまわりの舞台発表で堂々主役をはる紗南。
 誰よりも輝く舞台の華に、直澄少年の愛の花束が渡される。焦る羽山の運命は?】

笑顔は地球の宝物

 「どんなに辛い時でも逃げずに立ち向かわなければならない時がある。だけど私は笑顔を絶やさない。笑顔は世界の人々を救うから。」……倉田紗南が劇団こまわりの舞台発表会で語ったクライマックスの台詞だ。割れんばかりの拍手が舞台を包み、大成功の内に終幕となる。花束贈呈がアナウンスされ、スポットライトの照らす中、すっくと立ち上がった美少年は加村直澄。紗南と同じ芸能界に生きる、青い目のスーパースター。取材のストロボが次々にたかれ、浮かび上がる少年と少女のツーショットはまるで絵にかいたような美少年美少女カップルに見えてしまうのは、どうもすごい。やはり紗南は普通の小学生ではないのだ、芸能人として生きることを約束された子なんだという実感がわくと同時に、彼女の傍らでカメラに向けてほほ笑んでいる少年が羽山の新しいライバルとしてリアリティを増してくる。あちらの世界で芸能記者たちに揉みくちゃにされ人垣ができている様子を見ていると、どことなく遠い世界にいる二人のように感じられてくるから不思議だ。事実、直澄は紗南ちゃんが例のCMだけで何千万も稼いでいるのだということを知ってびびりまくる。普段はありふれた女の子に見えて も、内実はあの年でバリバリ稼ぎまくっているスターなのだということ、そして彼女には他の女の子達にはない役者としての華があり、タレント性があふれかえっているということが舞台から生で伝わって来る時、羽山少年には何か焦りのようなものがこみあげるのだ。この世界で紗南とつりあう男性は、ひょっとしたら今花束を持って彼女の元へ進み出る直澄少年かもしれない。挑戦的な言葉が羽山の心理を直撃し、焦りを生む。倉田紗南のすごさが彼にもだんだんとわかってきたのだ。敏腕マネージャーと評価された玲君に、いきなり頭を下げて挨拶するのも可笑しい。けれどみんなこの社会の中できちんと自分の仕事をこなしている人々なのだから、ただの小学生のこどもにしてみればそれはれっきとした大人の社会。日常から離れた芸能人としての紗南の世界をはっきりと感じた瞬間であったことだろう。
 それにしても冒頭に書いた、ユーシー役の紗南がクライマックスに語る台詞が実に示唆的だ。まさしく今、運命から逃げたいとさえ思っている彼女が、再び勇気をふり絞って困難に立ち向かう必要性を役の中で説く。しかも笑顔を決して絶やさないと誓うのだ。これは現在の紗南自身への励ましと誓いの言葉でもある。少しでも暗い気持ちになった時、なるべく先のことは考えないようにして日常的に無理なく振る舞うことにした彼女をとても勇気づけるものだと思う。そうした意味で、舞台で表現されるユーシーは倉田紗南そのものなのだ。役の中で彼女は自分を告白するし、そうであるからあれ程劇的な役作りが可能になってくる。観客は思わず彼女の心証告白的な台詞の厚みに引き込まれ、役に一体となった紗南を絶賛する。このドキドキの体験は今ある紗南の立場や気持ちを丸ごとこめた自然体感演技者としての発表だった。そういう天性の能力がいかんなく発揮され、客観的に評価されていく見せ場が表現されたものだと思う。キーワードは笑顔。笑顔を絶やさない……これは、大地作品に通底する普遍的な訴えかけだろう。辛い時にも悲しい時にも不安な時にも笑顔を保ち続けよう! そうすれば きっと、どんな困難な未来も切り開けるのだというのが、氏の作品に共通する希望的あたたかさであるように思える。言い換えれば世界中の人々の気持ちを癒す為に、紗南の演技する笑顔は存在するのだ。彼女のきらびやかなその価値は、ひとえにこの笑顔にかかっていると言えるのかもしれない。

加村VS羽山
 
 さて、突如出現した羽山のライバル加村君。ただの美少年と思って安心していたらどっこい、本気で紗南ちゃんのことを狙っているぽいのが緊張感を生む。すれ違いざまに「キミの秘密を知っているよ。」とささやいたのは、自分の存在を印象づける為の彼なりの演出だったそうだが、その目的が紗南自身である……ひょえーその先は私の口からは言えない〜、なんて人なのよ直澄君!!……なのは事実のようだ。明らかに態度で紗南に好意を示し接近を図ろうとしている。そして何故か彼女の過去を全て知っていて、「ぼくの紗南ちゃん」ファイルを全六冊も抱えている謎。自分が同じ立場の子供だと言うその真意は何か。何が同じだと主張したいのか。芸能界というもう一つのフィールドから紗南との共通項をたぐってぐいぐい接近してくるブルーの瞳の謎の少年のことが気になってきたところで、羽山もさすがにその存在を男として認めざるを得なくなっていて、彼なりの危機感を深める様子が面白い。芸能人倉田紗南につりあう男という視点が生まれ、彼女のすごさに匹敵できる男になりたいと焦りを感じはじめているのだ。丁度なるなる校長が空手を勧めたことで羽山の気持ちに火が付いていた。倉田 にこのまま置いてけぼりにされて観客席から遠く見つめているだけでは嫌だ。どうにかして彼女と対等に背を並べられる男を磨きたいと、漠然と思ったのだろう。直接的要因になったのは言うまでもなく、紗南と同じ世界で文字通り背を並べている加村少年であり、彼と張り合う為に羽山は、より強い自分を欲して空手を始めることにしたのだ。今まで人生に冷めたふうな口をきいていた少年が突如、意欲溢れるファイターに変わろうとする様子は奇譚だが、それもこれも紗南の魅力に追いつこうとすればこその健気さ。一人の少女を巡って絶世の美少年が強力なアプローチをかけようという今、さすがの羽山も思わず思い腰を上げざるを得ない。空手を始めたいという意思は、相応の直澄に対するライバル宣言と解して間違いないだろう。まるで少女マンガのような展開で実に、羽山らしくなくて楽しい。
 そして、夏休みの最後に設けられた紗南の舞台がついに幕を引いた。これでドキドキは一つ去った。しかし、彼女の中で胸の高鳴りは止まらない。もう、次のドキドキが始まっているからだ。いよいよ本当の試練が待ち受ける日がやってこようとしていた。ママのエッセイが世間に発表される……この事実を明日に控え実紗子ママもさすがに落ち着かないらしく、自宅で「明日出る出る、本が出る。」と一人でおどけて歌ってしまう程の動揺を見せるのがやけに印象的だ。一体何が発表されようとしているのか。どんな風に紗南を巡る環境が変わろうというのか。そしてそこへ当然絡んでくるだろう加村直澄君の役回りは何か。羽山の役どころは? 
 いよいよこどちゃシリーズ最大のクライマックスがやって来る。紗南にとっての本当の夏がやってこようとしている、8月の最終日であった。


17「アッとたまげた母の本」

【ついにママのエッセイが全国で発表される。
 明かされる倉田紗南出生の秘密。沸き立つ世間。実沙子を叩く抗議の嵐はとどまらない……】

ヒモと私
 
 始め僕は、どうしてこういうタイミングで倉田実紗子と、別れた夫とのドタバタ劇を入れたのか理解できなかった。もっと深刻に問い詰めるべきテーマが山積みであると思ったからだ。しかし一連のエピソードが紗南を中心に回っているように見えて実は倉田実紗子という女性のこれまでの人生の遍歴をえぐり出す構造になっていると気付いた時、疑問は氷解した。ここで最もテーマを置かれているのは実紗子さんの心なのだ。彼女がどういう人間なのか、どうして紗南の母親をやっているのか、どうしてあのエッセイを書くことにしたのか、そしてこれから紗南をどうするつもりなのかというテーマが中心課題になっている。紗南は自分の生い立ちが世間に公表されることよりも、それが契機となって自分と母親の関係が壊れることをずっと恐れていた。ママが私を手放すつもりだったらどうしようか……そんなことを考えるだけで涙が溢れて止まらなくなるのだ。12年間娘を演じ続けてきた紗南にとっても、実紗子さんという人はそれ程わからない人間なのだ。約束に拘る彼女の本心が実は読めていない。もっと大きくなって自分も子供を持つようになってみたら、あるいはひょっとしてその気持ちの一 端を伺えたかもしれないが、小学六年生のいたいけなこどもである紗南にとっては、こどもを持つ母親のリアルな気持ちなどわかろう筈がなかった。ましてそれが本当の自分のこどもでなかったとしたら……我々にも彼女の本心はとらえようがないのではなかろうか。それほど事態は重いのである。
 実紗子さんの気持ちと、こうなる日までの事情を追う為には、先ずもって彼女が結婚していた時代にさかのぼらなくてはならないのが道理である。特別養子として引き取られた倉田紗南の、戸籍上の父親というものが存在する筈だからだ。そして、彼がもしあんなかいしょ無しの風来坊でなくてきちんとこの家に住んでいたとしたら、今の母子の在り方も全然変わったものになった筈である。紗南にはれっきとした父親がいて、実紗子さんは小説を発表することをためらったかもしれない。それは父と母と子の関係に発展していたであろうから。そうして紗南の不安感=母親に捨てられるかもしれないという意識も払拭されていた筈。しかしそうはならなかった。この家には重大な欠落がある。先ずは父親の欠落。これが倉田紗南の母親に対する絶対的な依存度を深め、あるいは根源的な断然を生む結果になったことを追認しておかなければならなかったのである。世界で一番仲のいいママ。しかして、たった一人の信頼できる大人から捨てられることの恐怖感が、どこか大人の世界との境界に一線を引く紗南の人間性に影響を与えているような気がする。前にも話した、紗南と実紗子との心の壁の存在は、近 ければ近い程より深刻な影響を残しているのだということ。実の親子であるように見えて、二人はどこまでも仲のいい友人というスタンスを保っているのだ。だから互いの本当の心を知らない。いつかその本心が顕在化する日に恐れを抱いている。実紗子さんは、ある日ふいにそんな悲劇が起こるくらいなら、いっそ自分で仕掛けておきたかったのではないかと僕は思うのだ。自ら動くことによって紗南の本当の母親をあぶりだし、決着を付ける。そう、彼女自身そうせねば不安に耐えきれなかったと。それほどまでにこの人は、紗南を実のこどもか、それ以上に愛してしまったのだ。
 欠落の要因は父親。彼は人の親としても人の夫としても失格と言わざるを得ないダメ人間だった。実紗子さんはそんな彼を若い頃は愛し、学生結婚をして一緒に二年の月日を過ごした。ヒモを抱え、それでも幸せだったのだろう。しかし20才の時、医者からこどもを持てる可能性は僅か5パーセントと告げられ、女としての自分に絶望した。彼女自身、それが離婚の主原因ではないと語っているが、少なくともこどもを持てない自分が男と生活する資格など無いとまで思い詰めたのは予想できる。そして、彼のこどもを生めない彼女は、結局彼から離れることになる。その代わりに、公園で拾った赤ん坊が紗南だった。それは神によって与えられた福音、そして実紗子へあずけられた宿命であったとしか形容のしようがない。紗南は実紗子さんの肉体的・心理的欠落を補う為にこの世に生まれてきた。彼女を母として規定する為に、倉田家へつかわされてきた天使の贈物だったのだ。男にもこどもにもめぐまれなかった女性が、唯一さずかった宝であったと解釈してもいい。それゆえに赤ん坊の血縁上の母親(戸籍欄にこの項目は必ず残り続ける)に対し、気持ちとしての実母たる実紗子がどうしてもたたき つけたい女の言葉というものがあったのではないか。紗南を本当に自分のこどもとする為には、どうしても避けられぬことであったかもしれない。それゆえ、約束の夏は訪れたのだ。それは、この母と子の深い事情を知らぬ者達が軽はずみに語って良い事件ではなかった。ちんぷぶっこきたいならどうぞと開き直れるのも、紗南の気持ちをわかっててやったと言い切れる非情さも、彼女の育ての母としての事情と強さなのだとしたら、それは肯定しても良いように思う。辛くても、そうすることが本物のこどもへの愛なのだと信じて良いように思う。この日が訪れる要因として、実紗子の夫と呼ばれる人の存在と人柄はいかに重要であったか、語るべくもない。だからこのタイミングでヒモは現れたし、スポーツ感覚でたたき出されるシーンが殊更描かれたのではないか。彼と紗南が親子であれたなら、問題はこれ程まで先鋭化された形で突き付けられなかった。全ては実紗子さんの独断であり、愛の傲慢であったと結論づける為の仕掛けであったと解釈できる。

娘と私

 実紗子さんのエッセイが発表されたことで世の中は予想通り大変な騒ぎになった。さすがのこどちゃもおちゃらけたポーズが減って、紗南はシリアス顔を保っている。来たるべき不安感、それは予想以上のものだった。そしてあぶり出される混乱も。TVは朝からエッセイの話でもちきりとなり、書店には本が山積みとなって、誰もが口々に作者である実紗子さんを非難した。無論、こういう結果が出ることを聡明な作家は全面的に予測していた。それでいて尚かつ出版に踏み切ったことを凝視せねばならないだろう。元より紗南との関係を世論にあからさまに公表してしまうことの罪を彼女は頭からかぶる気でいたのだ。小学生の娘にとってあまりにも残酷であることをわかっててやった。確信犯なのだ。娘がいかように思うか、彼女がどれ程社会的立場を変えられるか、そうしたことをひっくるめてそれでも事情を訴えかけたかった相手がこの世に一人だけ存在した。何十万冊も刷られたであろうこのエッセイは、実にそのたった一人の人間へのメッセージに他ならない。生きて、実紗子の願いをかなえる本は一冊だけ。そう、紗南の産みの母親がそれを目にして名乗り出てくれることを狙った戦略だった のだ。ただひたすら娘に「お母さん」と呼ばれる者の責任がそうさせたのではないかと思う。母親と呼ばれる程、愛すれば愛する程、とりまかれる責任と不安が、おなかを痛めた女性への決別を促す。紗南を自分の子と言い切る為に、実紗子は約束の日を決行した。肉体的に母親となる可能性をほとんど遮断されてしまった彼女にとって、それは女の内に潜む母性が仕掛けたギリギリの決断だったのであろう。もし、このことで娘を失うようなことがあったとしても、自分の中の母が娘への12年間の愛を訴え出ようとする限りもはや止めることはできない。してみれば紗南が実紗子の複雑な心をとらえきれないのは当然であるし、理解できる年頃でもない。全て、母の独断として責任を処理するより仕方なかった筈なのだ。
 本は出た。誰もがTVタレントの紗南ちゃんと小説家実紗子さんの血のつながりのない親子関係に衝撃を受けた。特に「身内」玲君の憤りは甚だしい。この家で紗南の父親役を代理している彼は、実紗子先生のことを激しく叱責する。自分の雇主であることも忘れて、ひたすら紗南の心情に荷担しながら。大人と大人が喧嘩をするこの激しさは予想以上のものだった。玲君のつきつける非難は全て正しいのだ。実紗子さんは論理的な反駁をしない。できる筈もない。母としての暴力であると、避けられない戦いであると、誰がわかってくれるだろうか。そしてしきりに「紗南ちゃんの気持ちは!?」といきりたつ玲君は、当の紗南が懸命にそでをひいて「いいんだよ、玲君。やめてよ、もうー」と泣くのを度外視してかみついている。紗南は問題の当事者でありつつ、どこまでも立場としてこどもなのだ。この印象はとても深かった。泣きながらスリッパでケンケンするシーンにリアリティの粋を感じてしまったのは僕だけではあるまい。騒いでいるのは結局のところ大人達であり、こどもである紗南には意見のしようもない大人同士の修羅場なのだということ。当人不在というべきか、大人がこどもを現場から 疎外したままこどものことを大人同士の視点でもって議論を戦わせることの矛盾。そうこうしているうちに置いてきぼりになっていく当のこどもの心境なんて、どうでもいいものなのだろうか。紗南の苦悩を救う道はないのだろうか。一番今、親身になって紗南のことを見守るべき玲君が、紗南を逆に苦しめている構図が悲しく思う。
 その時、疾風のごとく一台の自転車が倉田家へ突入し、紗南の姿を見いだすとスキー帽をすっぽりとかぶせて彼女を邸外へ連れ出した! 羽山だ。泣きたい時には俺ン所へ来い、と言っていた倉田紗南の心の支えが、まだぶるっちゃを震わせていないにもかかわらず飛んできてくれたのだ。僕は、あの状況下で羽山が倉田家の修羅場の中から連れ出してくれた時の紗南の心の中の嬉しさを思う。家の外ではマスコミが完全包囲して倉田ママを糾弾し、家の中では玲という大人がやはり実紗子ともめているような状態にあって、彼女は予想していたとおり自分の家庭が、楽しい日常が崩れていくのを実感したに違いない。そういう絶望的な涙が、羽山の姿を一目見ただけでひっ込む。彼は、彼女の一番の理解者なのだ。そう、今となってはママよりも紗南の心境を理解してくれる、泣かせてくれる友人だ。お互いこども同士だから、こどもの立場で扶けあいっこができる存在。かけがえのないマブダチを目撃して瞬間、彼の自転車の荷台に乗せられ小さな体にしがみつく。疾走するバイスクルが報道陣の大人達をかきわけ強行突破する! 後を追おうとする彼等の進路を阻むのは直澄君の車だ。ああ、なんという ことか。紗南のことを実際わかって扶けてくれるのが同じこども達であるという点が、こどちゃのテーマ性に肉薄している。こどもの気持ち、それはこどもにしかわからない。そしてこども達は傷ついた時にも不安な時にも寂しい時にも、手に手を取り合って困難を乗り越えようとしている。彼等がそこに結集できるのは、皆が紗南の気持ちと心を一にしているからだろう。こんな時支えになり合えるのは共通の世代の悩みを持つこども同士だっていう点が、なんとも大人たちへの皮肉であるし、現実的な訴えなのだ。結局問題の自浄能力はこどもに内在している。実紗子がどういう心境でいようと、玲君がどんなに大人の立場で怒ろうと、紗南は紗南でありこどもの立場は彼女の仲間たちが守ってくれる。どういうとらえ方をしようが紗南の問題は、紗南自身が選択して決めるべき問題なのだということを、如実に示し続ける。大人の世界での争議はこの際、関係無いのではなかろうか。紗南自身の気持ちがはっきりしていれば、恐れるものは何もないはずなのだ。
 ラストシーン、紗南の背中から首筋にかけて、引き寄せるように抱きとめる羽山のしぐさにしびれた。心から彼女を守ろうとしているポーズ、この堂々とした態度が素晴らしくかっこいい。羽山でなくてはできないスタイルだと思った。彼の目が、たくさんのことを語っている気がする。勘違いでなければあの瞳、初めて倉田紗南と対峙し、ふきかけられた色インクをゆっくりと袖でぬぐった時の眼光に似ていた。大人社会の矛盾に汚れ傷ついた少女を胸の中で泣かせる男。彼女は社会に居場所を無くし、家庭からもはぐれたアウトロー。その体を自らに引き寄せ泣き場所を与える彼自身も、やはり社会からスポイルされた一匹狼だ。即ち二人は、世界から逃亡したこども同士であり、互いに共通の苦悩を抱える特殊な家庭環境下に育った者達だ。相手の心の痛みを分かち合える者同士なのだということが、この抱き合うシーンからしみこんでくる。そして泣いている彼女を外部社会から毅然と守り抜こうとする少年の決意と敵意あふれる目付きがどうにも印象的でならない。彼だけは、何が起こっても倉田紗南を守り抜ける人間なのだと、その狼の瞳を見て直感した。紗南も又、羽山と同じ狼の末裔なのだと 、二人がここで世界からはぐれようとしているのはそういう意味なのだとの確信を得たのだ。そこでは演技者としての日常の仮面も脱ぎ捨てて存分に涙を流せるはずだ。今までの成長の涙を彼の胸で心行くまで晴らせばいい。感受性の封印によって押しこめられてきた本当の倉田紗南が全開で泣けるシーンに、熱い感動をすら禁じ得ないではないか。いつも側に居て支え合いながら二人が生きていけるなら、世界を敵に回したって怖いことなんか一つも無いだろう。少年の目がひたすら見据えるもの、それはこども達が泣きたくなるような大人社会という名の魔境なのだ。何があっても傍らの少女を守り抜くという意思が読み取れたから、僕はこの二人の仲を認めたいと初めて思った。紗南の人生の苦悩を手に負えるのは間違いなく彼しか居ない。フツーのこどもではいられないほど傷付いた条件が同じならば、それは必然的なカップリングであると断じて申し添えたくなる、ラストカットだった。


18「腹ぺこ二人がかくれんぼ」

【秋人の機転で一時、羽山家に避難した渦中の娘。
 紗南は、約束通り彼の胸で涙を流し、不安を癒しながら嵐の引くのを待った。】

こどちゃスタイル

 押し寄せる報道陣。わきたつ世間。混乱の渦中にある倉田家を脱出し、しばし羽山家に避難する倉田紗南。この状況下にあって、こどものおもちゃのスタイルがいつもと全く変わらないのには、驚く。先週の引きで超シリアスの入った羽山が紗南の首筋に手を回した後に何て言うのかと思いきや、背中をまさぐって「お前、まだブラしてねーのか?」と来る辺りはちょっともう唖然とする他無い。なんかこう、シリアスに批評することが罪であるかのような感覚にとらわれてくるのだが、一体この各評が存在することの意義ってあるんでしょうかね? こどちゃはこどちゃだし、それ以上でもそれ以下でもなくって、笑いと涙とペーソスとウイットの混在する総合娯楽作品であると思うのだ。一元的に紗南のシビアな心情のみを追っても片手落ちという感は拭えない。しかし、現状フィルモグラフィーという手法を使わなければ構成されるギャグの分解詳述は不可能だし、当欄でそれを行う余地は技術的にも権利的にも存在しないので、やむを得ず周辺の人物の心境表記とそのドラマ上の評価を試みるより他方法がないわけだ。一体こどちゃはどういう角度で読み込まれることを欲しているフィルムなのだろう ? こどちゃを語り得る言葉はこの世に存在するのだろうか? そういう疑問がわいて出ることは正直、告白しておきたいと思う。こどちゃのスタイル、それは同時に紗南の生き方のスタイルであり、シリアスとギャグの二面的パラダイムを縦横に織り込んだ愛と笑いの多面体活劇である。紗南はどんな時でも笑いを失わないし、悲しくても笑い続ける宿命を負ったスーパーヒロインなのだ。誰かが泳ぎ続けていなければ死んでしまうサメに例えて言ったが、倉田紗南という少女も、いかなる状況下に追い込まれようが笑いとドタバタで生命の奔流を感じ続けていなければ息の根が止まってしまいかねない生き物のよう。だからこどちゃがどんなにシビアな設定と世界を描こうとも、笑いの手を緩めることなどできないのだ。主人公の生命力を殺さない為に、どこまでも走り続けるエンドレススタイルなのである。

笑わなくっちゃ

 ともかく、紗南が避難した羽山家のぬくもりが何とも言えず心地好い。かつてあれ程荒廃した羽山一家が、こんなに愛情あふれるあたたかな家庭に恢復していようとは、夢にだに思わなかったではないか。夏美さんは普通の優しいお姉さんになっているし、父はひょうきんな一家の大黒柱として頼りがいのある朴訥なキャラクターが定着している。秋人も、家族への恨みをすっかり忘れて自分を閉ざすことなく一生懸命気持ちを表現しようと努力している。そういった人達に囲まれて、日常の団欒の中、今の紗南がどんなに救われているかということをふと思ってしまう。今やそれらは倉田家にあっては到底望めぬ家庭の安らぎなのだ。その中で、傷心の娘が眠りこけていく様は人の心の安堵する場所というものを如実に表現している。ここが紗南にとっての第二の家であることは間違いない。とすると羽山問題にかかわずらってきた紗南は、その家族を含めた家庭環境にまで首を突っ込んだ時点で、自分の為の家づくりも行ってきたということになろうか。羽山と和解し、その心の傷に優しく触れて癒していったのも、彼女にとっての安らぎの住所を得る為だったという見方もできる。さもありなむ、他人の 心を恢復せしめる者が、自分自身の心の傷を癒すことができなければ、それは嘘であろうと。人を変える力は、それを通じて間接的に自分をも変えていくものでなければ価値は持たない。紗南が周辺人物達の心に接触して変化を与えるのも、彼女自身の環境構築的な意味を持っている。人は、一人だけでは生きられない。扶け扶けられることで成り立っていくのが人の世の世界なら、紗南は持ち前の明るさで周りの人々に笑いと安らぎをふりまきながら、そういう人達に囲まれる自分というものを作り上げていくのだ。こういう時、彼女を知るみんなが味方になってくれて自然に手を差し伸べてくれるのがその証拠だろう。みんな紗南のことが好きなのだ。大好きだから、彼女の笑顔を絶やさないように頑張る。紗南が光ならば、誰しも自分を照らすその光が失われないことを願うだろう。こどちゃにあらわれる社会というのは、そういう仕方で成り立つものであることを実感するストーリーであった。
 
不安

 結局、紗南が羽山家に来た本当の理由を考えてみると、実紗子からの一時的隔離という意味合いが非情に強いような気がするのだ。あの玲君が興奮して意見する程、今の実紗子嬢は不安定な状態にある。作家として、母として、女として、彼女の取った行動は内面的に完結したものであったが、外部に与える影響というものを度外視した行為であることは否定しきれない。結局、娘である紗南を泣かせてしまったし、自分を追い込んでいっている。頭の飾りを取り払ってしまった実紗子は、いつもの余裕綽々たる大先生ではなくなっていて、等身大の普通に苦悩するただの女に見えてしまうのはうがちすぎだろうか。全てに於いての余裕の無さは、娘との心理的距離感にどうしてもつながっていった。紗南の不安は当初から、ただ一点しかない。「ママがもし、私の産みの母親を見つけることで自分を手放すつもりだったら、どうしよう……」これだけなのだ。自分が産み捨てられたこどもであることや、それが世間に公表されることなど、つゆと気にかけてはいない。そんなことは5才の頃から了解していた事柄だし、世の中の受け止め方がどうあれ自分は自分とわかっている子だから。したがってTV画面 で無関係な大人達が、さも紗南の心情理解のように語るアナウンスは全て空しく的はずれなものだ。それよりも気になるのは、今まで母と呼んでいた女性がこの事件をきっかけにそう呼べなくなるとしたらどうしようかという不安。自分が彼女のこどもであることを拒否されたとしたらどうしようか……その時自分は本当の捨て子になってしまうのではないかという不安感が問題なのだ。無論彼女のこうした悩みが杞憂であろうということは容易に想像がつく。客観的に見て、実紗子さんが自分から紗南を手放したがる筈がないとわかってはいる。しかし当事者たる紗南には今のママの本心が見えないし、ママも意識的にこどもを突き放している兆候がある。今だけは、ママはママであることをわざと止めている。それはなぜなのか、こどもの紗南にはあまり見えていないのだということ。そして、気持ちとしてはママの側にずっと居たいのだとしても、ママが自分を手放したいと考えているのならそれをイヤとは言えない……だから不安で悲しいと、紗南は羽山に頼りきりながらほほをびっしょり涙で濡らして泣きわめくのだ。そして羽山は、「お前が言えないんなら俺が言ってやる!」と興奮して叫ぶ。ハッと する瞳。「うれしいよぉ、羽山ぁ、うれしいよー……」紗南はますます泣きじゃくって縮こまる。もう涙なしでこども達のこんな場面は見られまい。今、こどもである少女の気持をわかってやれるのもいたわってやれるのも、そして本当の意味で力になり支えてやれるのも、羽山だけだ。実紗子への距離感に震える小さな肩を抱いてあげられるのは、少年の腕だけなのである。

母の気持

 さて、それではこれほどまで愛娘を悲しませながら手を差し伸べてやれない実紗子の気持ちというものが疑問に思われても仕方があるまい。どうしてこの状況下で彼女は意識的に娘との壁を作っているのか。どうして彼女が泣くことをわかっていて、このようなエッセイの発表を断行してしまうのかという辺りが問題になってこよう。無論彼女とてずっとずっと紗南と一緒に生活したい気持は山々なのだ。というか、そうすることで若き日の5%という数字のコンプレックスを乗り越えて来たものだし、紗南を失う人生なんておそらく今の彼女には考えられないことに違いない。できることならこのままひっそりと娘と母二人きりでずっと生きていきたいと願う筈。紗南が産み捨てられた嬰児であったことなど忘れて、今までどおり本当の親子として暮らしてゆきたいと思っているのは間違いないことだろう。しかし、敢えて実紗子は紗南の本当の母親を見つけ出そうと決意する。何故、心情的に矛盾する行為を選択したのか。
 当然、産みの母に何か言ってやりたいことというのが一つや二つはあるだろう。その辺のことはママも、紗南に昔から話していたようだ。しかし個人的な育ての母としての抗議や文句をつきつける為だけにそのような行動に走る人ではない。実紗子は、捨て子を持ったことについて誰をも呪ってはいないし、むしろ自分を幸福に思っている。紗南の生い立ちを不幸なものとして決め付けているのはむしろ周りの人間達で、当の母子は心からこういう形で出会えたことを幸せに感じている筈だ。しかし、その幸せのかたちを打ち砕くような行動に出る理由といったら、もはや一つしか考えられないだろう。実紗子はこの12年間の母としての務めを賭しながら、紗南に本当の自分の母親を選ばせようとしているのだということ。それ意外に理由はつけようがないではないか。実紗子自身、母である完全な自信は持ち得ていなかったのだ。12年間、紗南がいつか不意に本当の母親の元へ行ってしまう日が来るんじゃないかと不安を抱きつつ生きてきた。そんな毎日と決別する為には、自分から産みの親を捜し出してハッキリさせるより他あるまい。実紗子なりに散々悩んだ末、紗南に自分で自分の母親を決めさせ てやろうと思ったのではないかというのが、僕からの回答である。その為には、こういった事態の中で娘と今まで通りじゃれあっているわけにはいかないのだ。同情をキッパリと拒否する為にも、紗南に客観的に判断してもらう為にも、敢えて自分の感情を殺し一人の母親候補として娘の審判の前に立とうとしているのではないか。一旦、冷静に突き放すことによって。
 それは娘を愛するがゆえの深い深い、彼女なりのおもんばかりであったと思う。さらっていきたくなるような可愛い娘の前で、あくまで育ての親でしかない自分というものを客観的に置こうとこの人は努力している。もし、産みの母親が名乗り出て引き取りたいと願い出た時、紗南に自分の意思で決めてもらう為にね。それ程、実紗子は自分を意識的に追い詰めていたのだ。聡明な小説家として名を馳せる彼女ならではの、自分に対する壮絶な試練と言えば言えることだろう。しかし、そうすることが娘にとっての一番の誠実なのだと思えばこそ、敢えて距離を置いた他人関係を知らしめようとするのではないか。12年間の母であったと同時に、あくまで他人でしかない自分を、娘にきちんとわからせようとしているのではないかと。なんて自己に厳しい人か。そして本当の親の愛だろうか。紗南がそういう母の気持をくみとれるのはきっと何年も先だろう。しかしいつか、この時の彼女の愛情と英断を娘は理解する日が来るに違いない。その時、確かに自分は愛されていたのだと、涙を流しながら母の気持を反芻するのであろう。たとえ真実の母が他人であったとしても。


19「娘泣く泣く母も泣く」

【まり子ちゃんと遊んだ遊園地。妹と出会った忘れられない一日。
 母が泣いた。娘も泣いた。紗南は倉田美沙子のこどもに戻り、約束の夏は終わった……。】

母泣く

 エッセイが発表されてわずか一日。実紗子の元へ電話がかかる。名前を名乗らぬその女性は、ただ「先生につないでくれ」と。それだけを志村に。ただならぬ様子にピンと反応する実紗子。そして玲君から、羽山家にメッセージが伝わる。母親と名乗る人が現れた……硬直する紗南。震えるブルッチャ。学校を早退し、駆け付ける羽山。ついに運命の時を迎える。紗南に、生まれて初めて産みの母親に対峙する時がやってきたのだ。まだ早すぎる、会いたくないとごねる少女の頬にピシャリ、羽山の愛の平手が押しつけられる。「逃げてどーするんだよ。」うん、そうだ。彼が一緒にてくれるから大丈夫だ。逃げずに会いに行こう! 紗南は恐る恐る倉田家へ戻って来る。マスコミの包囲は、加村直澄問題に移っていてすっかり消えていた。その静けさが逆に、怖い気がする。舞台は全て整えられたのだ。実の母子が対面するその日、今までに感じたことのない緊張感が倉田家の屋敷にひた走った。
 先ずは実紗子問題。当然、紗南の保護者として、現れた女性の裏を取らなければならない。何か決定的な証拠は? と尋ねた時、坂井佳子と名乗るその女性は、産んだ子供のお尻に三つ星の黒子が会ったことをポツリと話す。間違いない! このことは母親である実紗子と紗南を知る者以外の第三者が知りようのない事実。とすれば目前の齢わずか25才のこどもの面影を残す若い女性がやはり、紗南の実の母親なのか。確かにその顔付きは紗南とうり二つだった。相当な美人だった。紗南がもう一人この世に生まれ出たがごとき、年齢さえ若ければ当人と見間違うような美しい女性であった。実紗子は、確信のようなものを得て、今までどうしても言いたかったことをもう一度模索する。けれど、娘のような母親を前に、用意されていた彼女の言葉は出てこなかったようだ。「産んだら育てる。そんな犬や猫やリスでさえ当たり前のことが、どうしてできない人間が居るのかしら……お立ちなさい。」それは、自分のこどもを叱咤する母親の厳しい処置に似ていた。愛の平手がテーブル越しにスパーンと佳子さんの頬を打った。女の人は倒れて震え、実紗子は「気が済んだわ。」と言って出て行った。それで おしまい。一度きりだって、なじったり紗南の気持を引き合いに出して責めることはしなかった。実紗子にとって目の前の紗南そっくりの女性は、まるで10年後の娘を目の当たりにしているような感覚であったのかもしれない。だから娘の頬をはたき、母として叱ったのではあるまいかと思う。何か他に言いたいことがたくさんあったろうに、結局実紗子さんはどこまで行っても母であった。産みの母親はほんの娘であった。母として対峙してこなかったことが、実紗子の戦闘力を払拭したという気がする。いずれにせよ、産みの母と育ての母の問題はこれでカタがつき、あとは倉田紗南本人の判断に全てがゆだねられることになったのだ。そこからが、このドラマの核心であろう。

娘泣く

 紗南はこんな時どういった顔をして良いものかしらない。わかるはずもない。ただ不安なのだ。だから羽山が一緒にいてくれることを望んだ。思うことは一つだけ。ともかくいつもと同じ自分であり続けようと。紗南は、実の母親を前にしても、彼女の日常を失うつもりは無かったのだ。この家で育ち、実紗子の影響を強く受けて育ったお気楽ご機嫌少女としての紗南ちゃんスタイルを、この修羅場にまで持ち込もうと。緊張感の中で「どーもー、倉田紗南でーっす!」と気の抜けた自己紹介をしてみせるのも、紗南が自分を見失わない為の演技である。相手にのみ込まれることを恐れているのだ。まして、それが本当の母親なのだとしたら、彼女は自分のパーソナリティを保持する為にこれ以上のアプローチの方法を持ち得ないのではないだろうか。予想通り、倉田紗南はまるで「こどものおもちゃ」の番組に出て大人たちをからかう時のように、とうとうと明るくまくしたてる。「25才、ほえー、それじゃああたしを産んだ時は14。それじゃあ捨てちゃうよねー、うん、捨てちゃう捨てちゃう……」実の娘にこんな風に言われた佳子さんの思いやいかばかりか。笑っても良かったが、これはこれなりに 紗南の厳然たる態度表明だろう。あんたのやったことは過去のことだし、今更それにこだわるつもりはない。はっきりさせておきたいけど、あたしは今はもうあなたの他人だし、母親と呼ぶつもりもないんだ、と言っているようなものだと思った。紗南は厳しい女の子なのだ。その割り切った決然さは、実紗子さんの教育の賜物だろう。そして5才の時から目をはらして人知れず泣いた彼女が、想像される実の母親というものに抱いたイメージが、他人以外の何ものでもなかったことを表している。紗南にとって、約束の夏の訪れと実の親との対面なんて実はどうでも良いことだったのではないか。ただ実紗子ママの愛情の絆をつなぎ止める為に、この通過儀礼は彼女の生い立ちから必然的に避けられないものであっただけではなかろうか。今、実紗子を抜きにして佳子さんと対面していることに何の感慨も無く、そして何の興味も無いのだということ。それが、実の母親を知らずして育った自分にとっての義務であるから、この場に逃げずに臨んだにすぎない。話すことなんて、何ももう無かったのである。実質的に彼女はもう、他人であるにすぎなかったのだから。
 唯一つ、誕生日を尋ねた意味は深いと思う。紗南のこだわりはひとえに、この世に生を受けた自分という一点に絞られるからだ。こどちゃにおいて、誕生日とかそのお祝いや記念にこだわるのも、なにがしか必然があるように思われる。ヒサエちゃんの誕生日すっぽかし事件、剛君のハッピーバースデーこどちゃ企画、そしてこの先の羽山との真ん中バースディ等々、こども達の生まれた日に関するエピソードはそれぞれ重大な意味を持っている。彼等がこの世に生き、お互いに出会い、こうして楽しい毎日をすごせるのも、BIRTH DAY……その日があったればこそなのだ。即ち、誕生日はその人の人生の記念日であり、最も人間にとって大切な日だと、これを祝うのは命を祝うことなのだと訴えているのではないかと思う。符合するのは例えば、大地コンテにおけるりりかの誕生日描写なわけで、それはその人物の生命の刻印を意味するものなのだということ。こどちゃの中に生き続ける大地スピリットは、3月7日生まれの紗南の誕生日問題を見逃さない。サムではなくサナであったことがまさに、今の紗南が今後も紗南であり続けるメタファーであることは、おそれて記しておいていいことであ ろう。佳子さんが現れる前も後も、紗南は紗南。彼女が今そこに現れたことも、全て過去に精算されたものの確認でしかない。誕生日がハッキリして喜ぶ倉田紗南の表情の中にはただ、生んでもらえたことへの感謝の気持しかないのである。「生きてるだけで丸儲け」という言葉は、彼女が内発的に実感をこめて放つ時、真の意味を持ち得る。紗南がこの世に感謝してやまぬのは、ただこの地上に生きていられる自分についてだ。危うい過去によってひょっとしたら何かのはずみに生まれ出ることができなかったかもしれない自分が、こうして息をし、大好きな人達に囲まれて人生を謳歌できることを、まるで天に感謝するかのように彼女はこの言葉を使う。その意味で、坂井佳子さんという女性が重大に絡んでいるのは承知しているし、産んでもらえただけで丸儲けととらえているのである。彼女に対して思うことは、結局丸儲けさせてくれてありがとうと、それ以上のニュアンスを全く含んでいない。一つにそれは倉田紗南のドライさであろう。
 まぁこうして、とどこおりなく倉田紗南は産みの母親との再会を果たした。そして3才になる、自分の妹にあたる血筋の女の子が居ることを知って、俄然興味を抱く。「妹と呼んでくれるの?」と、母は驚き泣き伏しているが、それは認識が違う。紗南は、実の妹という感覚で彼女と会うのではないからだ。そうなってしまえば愛憎の関係がどうしてもまとわりついてしまうことだろう。妹は母親に捨てられることなく明るく育ち、姉は12年間母の面影を知らずに別の人の元で育ったのだと、そういう視点に紗南は見ていない。また見たくもない。ただ、自分の妹と呼んでもいい3才のちっちゃな女の子の知り合いができたこと、それのみを喜んでいるのである。ちょっと前に剛君の妹のあおのちゃんが登場した時、紗南が「う〜ん、可愛いー、一人頂戴!」と踊っていた件が思い出されるが、彼女はなんとなく年下のちっちゃな女の子が身近にいたら楽しいだろうなぁー・・と、そういう気持で妹と接触している。佳子さんの考えるような重みで、妹の存在を認めているのではないのだということ。……ともあれ、確かに血のつながりのある彼女と遊ぶ為、紗南は接触の機会を望んだ。いいんですか? と 玲君に問い詰められても、実紗子ママは何も語らなかった。何も。止められる権利があるものならば、彼女は止めただろう。しかし、あくまで公平な育ての母としての立場を選んで、この瞬間に臨んだのだ。「あとは紗南に任せるわ。」という台詞に、二言はない。
 まり子ちゃんとのりぼんランド。それは紗南にとってめくるめくような楽しい一日だった。丸一日妹とその母親と一緒に遊んで、紗南はもう一つの家族の風景を味わった。勿論彼女のトランキライザーとして、羽山もそして剛君も、後からついてきてくれていたが、それがゆえに紗南は安心しきっていつもの自分のままで遊園地の一日を過ごした。まり子ちゃんは紗南のことをTVで知っていて、すぐに「ちゃなちゃん、ちゃなちゃん」となついてくれた。しかし、「おねーちゃん」と呼ぶことも呼ばせることも無かった。そして紗南自身も、まり子ちゃんのことは妹って感じじゃないと薄々気付いていた。「あたしって、単なるこども好きなこどもみたい」……と。佳子さんの期待したニュアンスはもう少し異なったものだったろう。はたせられないと思っていた、二人のこどもと一緒に家族としての一日を過ごすこと、そういう望みが無かったとは言えまい。けれどこの一日を通じても紗南の気持に変遷は見られない。佳子さんはどこまでいっても他人としてのよそのおばさんでしかないし、感覚的にまり子ちゃんを妹だと思える時は無かった。ただの可愛い女の子、剛君の妹と遊ぶのと変わらない、知り 合いの3才の少女以上でも以下でもなかったのだ。
 夕日にメリーゴーラウンドが照らされる頃、まり子ちゃんはすっかり遊び疲れてすやすやとお母さんの胸で安らかな寝息をたてている。妹の寝顔を見ながら、紗南の表情は和らいだ。ありがとう、そしてバイバイ! 手を振ってお姉さんは別れようとした。その時、佳子さんはポツリと自分の本音を漏らす。
「望みをもっちゃ行けないかしら……いつか紗南ちゃんと暮らせる日が来ると、思っちゃいけないかしら。」
それは、産みの母親としてどうしても捨てきれぬ一念であったかもしれない。佳子さんも又、12年前に産んだ娘のことを愛していたから。ずっと苦しみ、責任に押しつぶされてきたから。せめて、いつかその子を娘として呼べたらと、何かを期待するのが人の母であろう。しかし、そうした彼女のわずかな期待は、紗南にきっぱりと拒否される。
「それは無いですね、できません。あたし、あなたを母とはとても思えないですし、はっきり言ってあなたに少しも関心がありません。二度と会いません。」
やや冷たいとさえ取れる紗南の台詞。しかしてその裏で彼女は、何万もの言葉を押し殺しているのではなかろうか。ただはっきりと自分の意思を伝える為に、毅然とした態度を崩さない娘は、強い女の子だと思う。一番のポイントとなる場面だ。
「でも、考えるとすっごーく怖いことがあるんです。あるんですよー奥さん!
あなたがあたしを産んでくれなかったらって考えると、すっごく怖いです。ひょっとしたらあたし今、ここにいないんだもん。そしたら、ママにも会えなかったんだなって。玲君にも、羽山にも、剛君にも、こんな楽しい世界を知ることが無かったんだなって、そんなのさみしすぎるって。だから、……あれっ?
……あなたがあたしを産んでくれたことだけは、とっても感謝してます。」
せき止めていた思いがどっと一気にあふれ出て、紗南の頬を伝う。お母さん! この人があたしを産んでくれたから、あたしはこうして生きていられるのだ。お母さん、離れて暮らしていても、この世に自分が生を受けた事実は変わらないのだ。お母さん、お母さん、お母さん。
 紗南がこの地上に立っている事実の前に、その血と肉を分けてもらった女性の存在は圧倒的なものである。頭でどんなに逆らってみても、人としての根源的な感情が彼女に依存するものであることは否定のしようがない。日常の仮面を失った、もう一人の倉田紗南が又、泣いている。羽山に寄り掛かって泣いたあの倉田紗南と同一の涙だ。泣いている自分を紗南はどうしても押し殺すことができなくて、「ありがとう」と言いながらしくしくと涙を漏らしてしまった。対する佳子さんも、一緒に泣いた。
 紗南は、はじめから自分の肉親たる母親に興味を抱いていなかったし、何があっても実紗子ママの元を離れる気はなかった。けれども現実にその人を目の当たりにし、自分がこの世に存在する意味を言葉にして出した時、こどもである倉田紗南は、血のつながりのある母の存在の重みに耐え切れなかったのだ。この人をお母さんと呼べない自分に泣いたのかもしれない。そして限りない感謝の気持をその人に残して別れた。
 紗南は、12年間押し殺してきたリアルな自分を体験した後、羽山に付き添われて実紗子ママの元へ戻ってくる。ママ、ママ!
「いつか一緒に暮らせないかーって言われちゃったよ。」
「どうしたのって、断るにきまってるじゃん。佳子さんとは二度と会わないよ。」
実紗子さんはカップを傾けたまま表情を変えない。そして何も言わない。返事が帰ってこなくて、紗南の表情にありありと不安の色が帯びてくる。最大のクライマックスだ。それはある意味で、紗南が一番恐れていた瞬間とも言える。
「紗南……御免なさいね、辛かったでしょ。」
実紗子さんはカップを置き、紗南と視線を合わせ、そして避ける。
「まだ小さいあなたにすべてを話すなんて、残酷なことだとわかっててやってた。あたしはずーっと不安だったのよ。いつか本当の母親が現れてあんたを連れてっちゃうんじゃないかと思って。だから早くこっちから母親に会ってキッパリ示したかったのよ。紗南は、紗南はあたしの娘だって。」
泣いている母親の視線を取り戻さんとするように、紗南は涙声で言う。母の顔色をうかがいながら。
「ママ、あたしずっとここにいてもいいんでしょ……?」
「当たり前でしょ!」
涙混じりの大きな声が、紗南の全身を包んだ。育ての母は、しっかと娘の体を抱く。もう二度と放さないという固い意志のこめられた腕。紗南は、娘は、自分を選んでくれたという喜びが、実紗子の全身からあふれかえっている気がした。実紗子の賭けは終わり、紗南は自分の意思で今まで通りの生活を選んで何もかもが解決したのだ。もう、この幸せな親子関係を揺るがすものは何も訪れないだろう。
 屋敷じゅうを電気自動車で壊しながら走り回る実紗子と紗南の姿には、胸いっぱいの喜びが表現されている。いつもとかわりのない風景? いや、それはもっともっと大きな喜び。屋敷を全部壊して建て直しちゃいたいくらい、この親子は今、最高にハッピーなのだ。